• 『夕映え』

    「……誰か、いますか~? ……って、いるわけないか……」

    ぎし、不安になる音を立てながら階段を一歩一歩踏みしめる。
    窓から差し込む夕日だけを頼りに、薄暗い旧校舎を歩いていく。
    本当はさっさと進んでしまいたいのだけど、このところどころ撓(たわ)んだ床板が、私の歩みを否が応でも慎重にさせている。

    ここは私たちが通う神楽原女学園の敷地の一角にある、旧校舎。
    数十年前に放棄された校舎の一部だ。
    少し前までは物置として使われていたが、ここ最近は老朽化を理由に使われることもなくなった建物だが、歴史的な価値があるということで、取り壊さずに放置されている建物である。

    「……はあ」

    まったく、どうして私が一人でこんな……旧校舎を歩かなくてはいけないのか。
    ため息をひとつ零しながら、頼まれたら嫌と言えない自分の性格を恨めしく振り返る。

    ──きっかけは、筝曲部にやって来た申し立てからだった。

    「旧校舎に筝曲部が……?」

    練習終わりに顧問の教師に呼び出された私は、教師の言葉にオウム返しで首を傾げた。

    先生の話をざっくりまとめると、こうだ。

    陸上部の生徒が悪ふざけで肝試しをしたところ、旧校舎二階の奥の部屋から、箏の音が聞こえた。
    その時は怖くなって逃げだしてしまったが、冷静になったらあれは、旧校舎に筝曲部の誰かが忍びこんで練習していたのではと思い、陸上部の顧問に報告をした。
    そして本日、我が筝曲部顧問が陸上部顧問から報告を受けた……と。

    「ええ。そんなはずはない、って私も言ったし、もちろん先生方も相手にはしてないんだけどね。でも一応、聞くだけ聞いておこうと思って……」
    「そう言われても……私は何も知らないですよ。第一、そんなところで練習する理由がないじゃないですか。練習室だって余ってるのに」

    一昔前の筝曲部は、神楽原を代表する部活だったと聞いている。
    その頃ならば部員数も多く、練習室が足りなくなることもままあったので、そういう不届きな生徒が出てくることもあったかもしれないが……あいにく現在の筝曲部は部員も10人ちょっとで、練習室も余り気味。
    わざわざ隠れて練習するような、熱血部員も居ないはず。

    「そうよねえ……。ま、私はその通りに陸上部の先生には伝えておくけど……もし何か分かったら教えてちょうだい」
    「分かりました」

    顧問との会話を終えて部室へ荷物を取りに戻る。

    「……じゃんけんほい! あいこでしょ!」
    「何やってんの?」

    部室内では、残っていた数人の部員によるじゃんけん大会が開催されていた。
    ……嫌な予感がする。

    「……さてはアンタたち、私と先生の話を盗み聞きしてたわね?」
    「お、流石は菅野部長、話が早くて助かります!」
    「我ら筝曲部にかかった濡れ衣を晴らす、栄誉ある尖兵を決定しようかなーって」
    「要するに肝試しでしょ……まったく」

    先生の話のタイミングが悪かった。
    ついさっきまで部室内では、夏休みの過ごし方について盛り上がっていたのだ。
    ちょうどそこにいる副部長が「肝試し」を激推しして、唯一の一年生……清水さん……が、本気で嫌がるという騒ぎの真っ最中に呼び出されたわけで……

    「う、うあああああ……」

    そして傍らではその清水さんが、チョキの形の自身の手を見つめて大粒の涙を零している。
    ……なるほど、状況は理解した。

    「ぶぶぶぶ部長~……!」
    「ちょっと、そんな顔しないの。まじめに受け取らなくていいのよ、副部長だって本気じゃないんだから」

    たった一人の一年生が可愛くてしょうがないのは分かるんだけど、みんなして清水さんを構い過ぎ、いじり過ぎなのよね……。
    特に副部長。
    あの子は絶対、ペットとか構い過ぎてノイローゼにするタイプ。

    「あはは、そうそう、大丈夫! 清水ちゃん一人を行かせたりしないよ~! ちゃんとアタシが行って確認してくるから安心して!」
    「……は?」

    全員の視線が副部長に集中する。

    「だってさ、気になるじゃん。ただでさえアタシら筝曲部って、今は結構肩身が狭いじゃない?」

    そう、過去に学校を代表する部活だった名残で、現代の私たちには分不相応な、やたら広い部室や練習室を与えられているのは事実。
    そして、そのことが他の文化部から不満に思われていることも理解している。

    「もちろんアタシだって、本当に幽霊のせいだなんて思ってないよ。おおかた陸上部の連中の聞き間違いでしょ。でもさ、そんな噂が立ったら……余計に筝曲部の入部希望者、減っちゃうじゃんか」
    「それは……確かにそうかもしれないです。」

    清水さんがおずおずと口を開いた。

    「実はその話を持ってきた陸上部の子って、私のクラスメイトで……。先輩たちと肝試しに旧校舎に行ったらしいんですけど……今日、クラスでその話してて……。『清水さん筝曲部だったよね、大丈夫? 呪われたりしてない?』ってすごく言われました……」

    ……幽霊だったとしても、筝曲部の部員の仕業だったとしても、どっちにしてもウチの部活に良くない印象が付くのは間違いない、ってことか……。

    「てかさ、アタシらの部室を使わせろーって前から苦情言ってきてる吹奏楽部や軽音部の連中のイタズラってこともあるじゃん」

    副部長は憎々しげに口にした。

    「流石にそんな捏造をするほどにまで嫌われてる、とは思いたくないけれど」
    「どうだか。あいつら事あるごとに『お箏なんて古臭い』って顔で見てくるし」

    それもそれでちょっとこう、個人的感情が入ってると思うけど……。

    「というわけでアタシがちゃちゃっと噂の現場を見てくるよ。何もなかったって証拠の写真でも一枚、撮ってきたら文句ないでしょ」

    そう言って得意げに携帯を取り出す副部長。
    そういえばつい先日「暗いところでもよく映る」って評判のカメラ付きの機種に変えたって自慢してたっけ。

    「結局のところ、そのカメラの試し撮りしたいだけじゃない」
    「ぐへっ! バレた~? ま、いいじゃん、いいじゃん」

    そう明るく笑う副部長に呆れながらも、それで筝曲部への濡れ衣が晴れるのであれば、まあいいかな、なんて……その時は軽く考えていた。

    ***

    副部長から焦った様子で電話が掛かってきたのは、丁度、帰宅して一息ついた時だった。

    『多恵~~!!ごめん! ほんとごめん~~!!』
    「どうしたの? まさか旧校舎で何かあった!?」

    『違うんだよ~~! 旧校舎に行く前にいったん家に帰ってきたんだけど……今日に限ってなんか、親戚が来てて! 出られなそうなんだよ~!』

    なんだ、そんなこと……?

    「いいじゃない別に。旧校舎の謎なんてそんなすぐに解決しなきゃいけないわけじゃあないんだし、別の日にすれば……」
    『うう……ダメなんだよ~、ゴメン、ほんとゴメン!』

    『実は……その……帰りに軽音部のヤツらと鉢合わせして……”旧校舎で練習? 部室棟の練習室を開け渡す気になったんですか~?”とか嫌味言われて……それで……』

    嫌な予感しかしない。

    『今日の夜、旧校舎に忍びこんで、筝曲部は無関係だって証明してやる、って……タンカ切っちゃった……』
    「どうしてアナタはいつも、軽音楽部とのことになるとそう向こう見ずになるのよ……」

    まあ理由は明らか。
    こう見えても古典邦楽をこよなく愛するヤマトナデシコである副部長と、古典に限らず日本の音楽なんて古臭い、と主張する、洋楽至上主義の軽音楽部副部長の犬猿の仲は、神楽原女子の間では有名だったりするし。

    「でも……どうしようもないでしょ? 軽音楽部の副部長には明日、私から言ってあげるから……」
    『いや、ひとつだけ手がある』
    「は?」
    『行け! 菅野多恵! 部員の面子を守るため!!!』
    「……はぁああ!?」

    ***

    結局、自分のケータイに夜景モードがついてないことを理由に断ろうとしたが、
    『だったら夕日のあるうちでもいい。とにかく一枚、現場に行ったという証明の写真を撮ってきてくれ』
    そう押し切られてしまった。

    「……何も映ってなかったらどうするっていうのよ」

    いささかわざとらしく、つぶやいてみる。
    もちろん私だって、「幽霊」なんて存在を信じているほど子供ではない。
    だがやはり、夕暮れ時の旧校舎というのは、こう……うすら寂しい気持ちを引き起こすものなのだ。
    誰に聞かせるでもない独り言を言うことで、なんとかそんな心細さを振り切ろうとする。

    結局、副部長の多種多様の口車──焚きつけたり拝み倒したり──に乗せられる形で、私は夕刻の旧校舎の一番奥の部屋を撮影して帰って来るという役目を引き受けることになってしまった。

    副部長が言うほど大げさには考えていないが、我が筝曲部が今、弱みを見せてはいけない立場なのは事実だし、何より……

    『そっかー、多恵がどうしても行ってくれないなら仕方ないなー。厳選なるじゃんけんで負けた清水ちゃんに電話するかなー』

    ……そんなことして、たった一人の一年生に退部されたらどうするつもりなんだ、あの人は。

    仕方ないのでさっさと写真を撮って帰りたいところだけど、さっきからギシギシと不穏な音を立てるこの廊下が、さくさく歩くことを許してくれない。
    怖いからというよりも、床を踏み抜いてしまわないように、ゆっくり慎重に歩くことを強いられている。

    本来立入禁止である旧校舎は、普段は施錠されている。
    だが、実はつい昨年まで、一階部分に関しては物置として備品をしまうのに使われていた。
    そのため、高等部の生徒の殆どが、鍵のある場所──旧校舎外側の水道メーターボックス──を知っていて、侵入するのはたやすかった。
    しかし、当時から二階は立ち入り禁止だった。この廊下の腐食ぶりを見れば、それも納得である。
    小さな子供ならいざ知らず、女子高生の重さでは耐えられそうにない箇所が、そこかしこにある。

    「……このまま取り壊さないなら、ちゃんと手入れしてあげればいいのに。いくら修繕工事する予定があるって言っても、放置しっぱなしじゃかわいそうだわ」

    夕日が差し込む廊下の窓を見ながら、ぽつりとつぶやく。
    大正時代の創立時に嵌められた、貴重なものだという窓ガラスは、外の風景がゆらゆらと陽炎のように歪んで見える、不思議な眺めを演出する。
    当時は今と違ってガラス製造の精度が低く、歪みのないまっすぐなガラスは作れなかったらしい。だが今となっては逆に、この不思議な歪みを再現することこそが至難の業なのだという。

    先輩や教師から聞くところによると、この旧校舎が使われていた頃、神楽原女子学園は所謂「お嬢様学校」というやつだったらしい。

    この学び舎のほかに寮舎もあって、全国から良家の息女を集め、相応しい教育──つまり、身分ある男性の妻として相応しい女性としての──を施すという、どこかの歴史もの少女漫画にありそうな学校として存在していたらしい。

    しかし時代の移り変わりと共に、そんな教育はどんどんと世間に必要とされなくなり……数十年前、ついに経営破綻を迎えた。

    そしてその際に、現理事長先生が名乗りをあげて学園を買い取り、現代に即した「自立した女性を育成する学校」へと変化を遂げたのだそうだ。

    生徒たちはその際に建てられた新校舎へと移動し、旧校舎は取り壊される予定だったが、実は創立当時……大正時代の建築様式がそこかしこに残っていて文化的価値がある、ということで取り壊しにストップがかかってしまった。

    最近になってやっと、記念館として保全修理するための計画が、市役所と学校の協力で動き出したそうだ。
    だが、何分、使われている技術が古すぎて、修繕を請け負える職人が全国的にもほぼ残っていないのだという。
    そのため、工事にはゆうに5年、いや10年はかかるのではないか……と、先生が授業中の雑談で言っていた。

    多分、計画が立ち上がるまでは、ガタが来たところはちゃんと修繕していたのだろう。一階部分には応急処置をしたような場所がいくつか見受けられた。
    しかし保全工事の話が動き出してから、「どうせ建て替えるなら……」という思考になったのか、手を入れることをやめてしまったこの旧い建物は、すごいスピードで朽ちていってるように見える。特に、以前から立入禁止だった二階はそれが顕著なのだろう。

    でも私はこの、窓のサッシまで木造で作られた旧い校舎の佇まいが、決して嫌いじゃなかった。

    赤い夕陽に染め上げられる廊下。古びて埃っぽいこの空間が、まだ活き活きと生徒たちを包み込んでいたころ。

    私の母か、祖母くらいの年齢の人たちがここで今の私と同じ「女学生」だったという過去に思いを馳せてみる。
    新校舎から部活を終えて帰る道すがら、赤い夕陽に染まった旧校舎を目の端に入れては、そんな愚にもつかない妄想をするのが、実はひそかな楽しみだったりしたのだ。

    だから……かもしれない。
    ここへ足を踏み入れてからも、清水さんのような「怖い」とういう感情が、私には一切無かったのだ。
    たぶんそれは、古いものを愛する性質を持つ副部長も同じだったのだと思う。

    「……まあ、そう考えたら私たちが証拠写真を撮るのに適任、っていうのはあるわよね」

    ゆらゆらと窓ガラス越しに差し込む夕日に、ため息交じりの独り言をつぶやいた、その時。

    ──アハハ……フフフ……──

    何かが……この場所に到底そぐわない何か、が。

    私の鼓膜に、触れた。

    それは、まるで小さな子供の無邪気な笑い声と、その後ろに微かに聞こえる……箏の音。
    背筋に一筋、冷たい汗が落ちる。

    「これ……何……『黒髪』……?」

    かろうじて耳に捉えた旋律は、よく知っている曲だった。
    だが、私の言葉は声になっていただろうか。もしかしたらハタから見たら、口だけがパクパクと動いていたかもしれない。
    恐怖……ともまだ呼べない。強いて言うならば、脳が不具合を起こした、とでもいうような……そんな感覚。

    この場所にあるはずのないものを、認識してしまったこと。

    それを私の脳が処理しきれずに混乱している。きっと恐怖は、このあと遅れてやって来るのだろう。

    ならば。

    まだ体が恐怖に絡めとられる前に私がやるべきこと、それは……。

    意を決して、私は音の元へと歩き出した。

    ***

    恐怖で踵を返すようなことにならなかったのは、私には二つの確信があったからだ。
    もっとも、音が聞こえたその瞬間には、心臓が止まるかと思うくらい縮みあがったのも事実なんだけど……すこし冷静になって耳を澄ましてみたら、分かったことがいくつかあった。

    ひとつは、女の子の笑い声。
    ……もちろん私は幽霊の声なんて聴いたことが無いから、比較することなんて出来ないんだけど。それでも、そんな私でもハッキリわかるくらい、その声は「生の声」だったこと。
    笑い声に混じる息継ぎとか、無人の古い木造に反射する声の反響とか……。
    よく心霊番組やオカルト漫画で描写されるような、「恐ろしい空気を纏った声」みたいなものではないように思えた。

    もう一つは……。

    「どうしてレコードがこんな場所に……?」

    そう、聞こえてくる箏の音だ。

    陸上部の面々には分からなくても無理はない。が、ほぼ毎日箏の音に触れあっている私なら分かる。これは生の演奏の音ではない。録音された音を何かの機器──おそらく、音の歪み方からして、レコードだと思われる──で再生している音だ。

    幽霊ではない、生きている人間がここにいる。
    そして、レコードで箏曲を再生している。

    この二つから導き出される答えは……。

    「……まさか、副部長の邪推が本当になるなんて」

    そう、誰か「生きた人間」のイタズラ……ということになる。
    しかもピンポイントで箏の音を流しているあたり、私たち筝曲部に悪い評判が立つことを狙っているという副部長の推理が当たっていたのかもしれない。

    一体誰が……? まさか、副部長が言ったとおりに本当に軽音楽部が?

    いや、この際、誰でもいい。
    とにかく文句を言わなければいけない。レコードをかけて騒いだって別にいいけど、なんでわざわざ箏のレコードなんだ。そのせいで我が部があらぬ疑いをかけられているのだ。

    混乱が落ち着いてくると同時に、ふつふつと怒りが湧き上がってくる。その勢いに任せて、まっすぐその教室の前まで、足を進めた。

    どんどん声と音が大きくなる。
    笑い声のほうは……やはり小さい女の子に聞こえた。
    だが、声質が幼い中等部の子だという可能性もある。

    意を決して、出来るだけ舐められないように、強い声色を意識して、私は声を張った。

    「……誰か居るの?」

    途端に、部屋の中で聞こえていた笑い声が、息を飲むように止まる。
    同時にレコードの音も、針を飛ばしたように止まった。
    ……間違いない。中に「誰か」いるんだ……!

    ぐっと力を込めて、引き戸に手をかけたその瞬間……

    「あら……こんなところで何をしているの?」

    背後から、誰かの声がした。

    ***

    心まで見通すような、凛と通る柔らかな声に、思わず引き戸に掛けた手を止め、振り返る。

    そこにいたのは……美しい女生徒だった。

    廊下の窓から差し込む赤い夕日に照らされた黒く長い髪の毛と、透けるように白い肌に思わず見惚れる。
    ……本当に、透けているみたい。

    ゆら、ゆらり。

    あのガラスから差し込む歪んだ夕日に、白い肌が揺らめいている。

    幻想的に美しいその光景が、私の思考を奪っていく。

    目を、離せない。何も、考えられないほど、目の前の彼女以外の全てが、今、この空間で私と切り離されていく。

    「あ……私……その……」

    息を飲むほどの美しさ、というのはこういうことだったのだろうか。
    その人の柔和な……だけどどこか恐ろしいほどの美しさを湛えたその笑顔に、視線だけでなくまるで呼吸まで奪われたように、上手く言葉を吐き出せない。

    ただ、呼吸を求めて水面にあがる金魚のように、口をぱくぱくさせるだけだった。

    そう、比喩ではない。
    本当に、呼吸が苦しい。

    ぐわんぐわんと、頭が痛い。
    赤いゆらめきに囚われて、世界の色が、かたちが。

    変わっていく。

    私のそんな苦しげな様子を、その美しい人は微笑んだままで見つめている。

    「ここは立ち入り禁止なの、知らなかったのかしら……? 悪い子ね」

    白魚のような指先が、私の頬に触れる。
    初対面の知らない人に、パーソナルスペースを容易く冒されているのに、不思議と嫌悪感を感じない。それどころか……。

    「もうしわけ、ありません……おねえさま……?」

    ……私は何を言っているのだろう。おねえさまって何だ?
    だけど何か……頭の中に赤い靄が張っていて……うまく考えがまとまらない。

    頬に触れた白い指先の冷たさが心地いい。
    振り払おうなどという考えさえ浮かんでこない。
    まるでずっとずっと前から、それが愛おしいモノであったかのよう。
    うっすらと目を細め、その手に頬ずりする。冷たい。気持ちいい。
    そんな私の様子を、「おねえさま」は満足そうに笑って見ている。

    赤い。ただ赤い世界の中、私と「おねえさま」だけの世界。
    これが「私」がずっとずっと、望んでいた……「私」って、誰?

    だけどもうそんなことはどうでもいい。どうだっていい。
    このまま「おねえさま」と、赤く、ゆらゆら……とけて、ひとつに……。

    それこそが「私」の望みだったのだから、このままその手が私の中に入ってくることにさえ、不快感はない。

    私の全てが溶けて、「おねえさま」に吸い取られていく……その感覚さえ、もう。
    この時間がずっと続いて、ぜんぶおねえさまのものに……。

    そう、思っていたのに。

    ──!

    どこからか……いや、この背後の教室から、大きな音が……箏の弦が切れるような音がした。

    その音に激しく顔を歪めると、「おねえさま」はするりと、私の中から手を抜いてしまった。

    「あっ……」

    もっと私の中を溶かしてほしいと思っていたのに。
    名残惜しさについ、自分のものではないようなかすれた声を出してしまう。

    「……ちっ」

    そんな私の様子などまるでかまわないように、「おねえさま」は小さく舌打ちすると、私の後ろの引き戸にむかって呟いた。

    「……まだ私のじゃまをする力があるのね。早く消えてしまえばいいのに」

    何を、言っているんだろう?
    誰に言っているんだろう?
    世界が、おねえさまが、歪んで見える。
    あたまがふわふわして、何も分からない。
    ……私はどうして、ここにいるんだっけ……?
    「私」……は、誰だっけ?

    「おねえさま」という寄る辺がなくなった「私」は、もはや自分の輪郭さえあやふやな状態で、ただ立ち尽くしている。

    そんな私を、うっとりするほど冷たい目で一瞥すると「おねえさま」は吐き捨てるように言った。

    「……このままあなたは家に帰るの。そしたら今日のことは忘れなさい。そして……」
    「命拾いした幸運を無駄にしたくなかったら、二度とここに来ないことね」

    そう、私の顔にお姉さまの顔が近づいてきて……
    その冷たい微笑みがあんまりにきれいなものだから、私は瞬きも忘れて見入ってしまって……

    そして、鼻先が触れ合うかどうかの距離まで近づいた辺りで。
    ──私の意識は、途切れた。

    ***

    「ごめんってば。いい加減機嫌直してよ、もう……」
    「あわわ……ご、ごめんなさい! じゃんけんに負けた私が、ちゃんと行ってれば……!」
    「ああ、違うってば。清水さんは悪くないの、気にしないで?」
    「そうだそうだ! 多恵のばーか! 信用してたのに!」

    昼下がりの部室。

    昨夜、副部長と電話で話したあと、どうやら眠りこんでしまったらしい私は、自宅の布団で目を覚ました。そして今日、登校し、嬉々として駆け寄ってくる副部長を見るまで、昨夜の約束のことを忘れてしまっていたのだ。

    当然、頼まれた「旧校舎の撮影」はできなかった。ぶつぶつと、落胆と不平不満を唱え続ける彼女を連れて、軽音楽部の部室を訪ね、約束を反故にしたことを詫びてきたところである。

    「あー、いま思い出してもムカつくぅ! アイツのあの勝ち誇った顔!」
    「もう忘れなさいよ……っていうかその後、あっちの部長に怒られてたじゃない、あの人も」
    「あ、うん。それはいい気味だった。ゲンコツ喰らってたな、ぷぷぷ」

    少しだけ機嫌のよくなった副部長に、やれやれと安堵する。
    清水さんがそんな私たちにほうじ茶を淹れてくれながら、ぽつりと零す。

    「それに、良かったじゃないですか。旧校舎の騒動に関しても濡れ衣が晴れたようなものですし」
    「確かにね。オチがついちゃったら『そんな理由?』って感じだけどさ」

    今朝になって、陸上部の顧問から、筝曲部の顧問に対して謝罪があったという。

    どうやら陸上部の肝試しの一行は直前に行われた合宿で、怪談大会をしており、その際に一番盛り上がったのが「旧校舎と筝曲部を舞台にした怪談」だったのだという。

    そして部員たちにその記憶が強く残っていたため「お箏の音が聞こえた!」と思い込んでしまったらしい。

    時間がたって冷静に教師たちが聞き取り調査を進めるうちに

    「聞こえた!」
    「聞こえたような気がした」
    「聞こえたかもしれない」
    「……聞こえたって誰かが言った」

    ……みたいな感じで、どんどんあやふやになってきたようだ。

    結局、思春期ならではの想像力によるもの、ということで教師たちも納得したようだった。
    人騒がせなものである。

    「まあ、そういうことだから……結果的にこの騒動はもう解決したってことで、ね」

    そう言って副部長に、自分の分の茶菓子を差し出すと、「しょうがないなあ」とニンマリ笑って受け取った。……現金なんだから。

    「ところで……」

    ほうじ茶をすすりながら、清水さんが小首をかしげた。

    「その陸上部で話してたっていう、筝曲部を舞台にした怪談って……なんなんでしょうね」
    「お、清水ちゃん怖いの苦手なのに興味あるの?」

    何かをたくらむような笑いを浮かべる副部長に、清水さんはちぎれんばかりに首を振る。

    「い、いえ!! ちょっと気になっただけで!! ほんとにどうでもいいんで!!」
    「えー、遠慮しないでいいんだよ? そうだ、引き続き怪談についての調査を……」

    そう、副部長が悪乗りをしそうになったその時。

    「だめよ」

    ……自分でも驚くほど、ぴしゃりと冷たい声が私から発せられた。

    「……え? 多恵?」

    普段の私と違うその声色に、副部長も清水さんも他の部員も、驚いたようなまなざしを向けてくる。

    そして私自身も……なぜ自分がこれほどにまで、「怪談」に対して忌避感を抱くのか分からず戸惑いながらも、ごまかすように、普段の口調で言葉を続けた。

    「……せっかく騒動が終ったのよ? 変に蒸し返してどうするの。 今度こそ我が部に不利なことになっちゃうわよ? 陸上部みたいに」

    そう、陸上部は勝手に旧校舎に入ったことがバレて、数日間の部活謹慎処分を受けた。
    我が部は、夏休み明けに高筝大会の予選が控えているのだ。
    こんなタイミングで問題なんて起こしたくない。

    「……確かにそうだな。ちえっ、つまんないのー」

    少々不服そうではあるものの、納得してくれた副部長と、隣でほっと溜息をついている清水さんをみながら、私は取り繕えたことに安堵した。

    ……部室の窓。
    遠くに微かに見える旧校舎の、朽ちた白壁にふと目をやる。

    グラウンドでボールを蹴る女子サッカー部の声。
    その中に微かに交じる「黒髪」の旋律に、気付かないフリをしながら、私は立ち上がり、皆に声をかける。

    「さ、おしゃべりはここまで。練習を再開するわよ」

    ……モノ言わぬ旧い校舎。その中で一体、少女たちに何があったのか。
    そんな過去にほんの少しだけ、想いを馳せた。

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