-
『一年後の私達』
夢を見た。
いや、夢とも言い難い。まるでシャボン玉みたいに断片的に浮かんでは消える、ただの記憶の断片たちの一つ。
長い長い時間かけて、過去を一つずつ解いていくような……そんな気の遠くなる時間のかけら。
ああ、これは……あの夏の話。
『猫なら良かったかなあ、って思うんですよ。時々』
夏休みの自主練。ふたりっきりの休憩中に、あの子がぼそりと呟いた言葉だ。
猫? と聞き返す私。
あの子が入れてくれる紅茶の匂いが鼻をくすぐる。
『私が人間の子だから、色々面倒が起きてるんですよ。私にもおじ様たちにも、そんなつもりはなくても』
ああ、と頷く。
田鎖家の貰われ子であるところの彼女の存在。
留学してしまった嫡子の美佐江さんの代わりとして、送り込まれた娘。
それはすなわち、田鎖家からこの学園への圧力……学園の内部をきちんと見ているぞ、という楔に他ならない。
反・田鎖派の教師たちが彼女に強く当たるのはその反発だ。
……最も当の田鎖氏は、そういう思惑がまったくゼロってわけではないだろうけれど。
彼女や美佐江さんの話を聞いていれば、それよりも単純に
『彼女に高校生活を送らせたい』
という私情が9割、みたいな人らしい。
……学園の買収にかなりの手腕を発揮したと噂の凄腕経営者がまさかそんな、と最初は思ったけど、繰り返し話を聞く限り、どうやら本当にそうらしい。
『もちろん、ここに来れたこと、後悔はしてないんですよ?』
お姉様にも会えましたし、とこっちを見て微笑むあの子の笑顔。
私は答えるようにカップをおいて、その手であの子の頭を撫でてやる。
目を細めて頭を預けてくるその様子は、確かに猫に見えなくもないが、どっちかというと犬のようだと思った。
話の腰を折るから、黙っておいたけど。
『でも……もし私が人間じゃなくて、猫なら……親を亡くした猫が、拾われただけの話だったら。こんなふうに色々な人の手を煩わせることも、反感を買うことも無かったのかなって』
私の手に頭を預けるようにしながら、どこか遠くを見つめる彼女。
……私も私で人間に対して失望はしているけれど、この子の場合「周囲に失望する」んじゃなくて、「自分が人間を辞めたい」って方向に行っているんだろう。
猫の灯音、ね……。それは困るわね。私、猫の見分けは毛色くらいしかつかないと思うわ。
あの子たち、お箏弾けないし。
そう言うと彼女は少しきょとんとしたあと、くすくすと笑った。
『お姉様ったら、そこはちょっとは隠しましょうよ。お箏がなくてもあなたとは出会える運命だから……とか。そういうのが優しさじゃないですかー?』
なるほど、それが最適解だったのね。
彼女と私を繋ぐ「音楽」。それは私達の間の大事な要素だけど、今この時の……少し弱気になっている妹に対しては、確かに違う答えがあったのかもしれない。
ごめんなさい、私、人の気持ちに寄り添うのが下手みたいで。
そう詫びると、今度は彼女のほうが私の頬に手を伸ばした。
『お姉様のほうが、猫に向いているかもしれませんね』
柔らかい掌に、恐る恐る頬を預けてみる。
そのぬくもりに思わず目を細める。
『どことなく高貴で、自分が曲がらず真っ直ぐで、はたから見たら我儘に見えても、どうしてか目が離せない美しい生き物……やっぱり、猫はお姉様ですね』
私はどっちかっていうと犬でした、と自分で結論に辿り着いて笑う彼女。
……随分と買い被っていると思うわよ。
『え? 猫を? それともお姉様を……ですか?』
そう悪戯っぽく笑う彼女。その余裕の表情になんだかむっとして。
私はせいぜい猫らしく、彼女の指先を甘噛みしてやったのだった。
これはきっと、終わりに向かう私の幸せな夢。
そんな夢の、続き──
* * *
「あ、起きたの?」
さわ、と頬に当たる冷たい風に重たい目を開ける。
投げ出した体の下に敷かれたタオルと、視界を遮断する四方の壁に、これが何か、箱の中なんだと気が付いた。
「旧校舎の方から鳴き声がするなあって、駆けつけて良かった。あんなところで寝てたら熱中症になっちゃうよ?」
ああそうか、どうにかここまで辿り着いたことに安心して、旧校舎の玄関先でちょっと休憩……って思って。
そこまでは覚えてるんだけど……この口ぶりだと、そのまま私は眠りこけてしまっていたというわけか。
寝言の鳴き声を彼女が聞きつけてくれなかったら、確かに熱中症になっていたかもしれない。
そのくらい、今年の夏は暑い。
私の頃はこんな気温じゃなかった気がするんだけど。
身体を持ってみないと分からないことって、ある。
「この部屋はエアコンがあるから大分涼しいから、涼んでくれると良いんだけど……」
そう、箱の天井から覗き込んで来た顔を見て、ぎょっとする。
いや、正確には顔じゃなくて頭か。
目覚めて最初に目に飛び込んで来た懐かしい顔。
それは紛れもなく、有華ちゃんの声に間違いなかった。
生まれてからずっと、遠くから見守ってきた私の血を引く子の顔だもの。
間違うわけがないじゃない。
だけどその……頭。
生前の私の生き写しと言われた姿の一端を担った長く美しい黒髪がどこにもない!
『髪、切ったの!?』
驚きと混乱のあまり、シャー!と全身の毛を逆立ててしまう。
「きゃっ! す、鈴……! どうしたらいいの!」
「大丈夫だよ、ちょっと慣れないところに来て怯えちゃってるんだと思うから……そっとしてあげよう?」
「そ、そうなの……? 分かったわ……」
少し離れたところから聞こえる彼女の声におろおろと同意しながら、有華ちゃんは箱の中の私と彼女を交互に見ている。
混乱の落ち着いた私はゆっくりと深呼吸をしてから、もう一度有華ちゃんを視線で捕らえた。
……一年前に比べて、少し手足が伸びた気がする。
去年だって充分に人形のように美しかった私の姪孫は、この一年で更なる成長と変化を遂げたようだ。
すらりと伸びた手足と比例して少し伸びたであろう背。一瞬少年と見間違う、短く切られたショートヘアと、美しく整った顔と体の造詣。
性別とかそういうものを飛び越えた、言うなれば中性的な……
落ち着いて、落ち着くのよ私。
一年経っているんだもの。
今どきの子は髪の毛を染めたり電気コテで巻いたりするっていうし。
それに比べたら髪の毛を切るくらい……
「……? 何かしら。この子ずっと私の顔を見てる」
「あはは、有華ちゃんのことが気に入ったんじゃない?」
相変わらず少し離れたところで笑う鈴ちゃんの声。
気に入っているかいないかで言えばそりゃ有華ちゃんだけじゃなくてあなた達みんなのこと、気に入ってはいるけども。
そうじゃなくて。
まさしく浦島太郎の気分で目をくるくるさせていると……
「お待たせー! 陸上部のダチから聞いてきたぞ、学校近くのおすすめ獣医!」
「累ちゃんの友達に猫飼ってる子がいて良かったよー。私たち誰も、動物飼ってないもんね」
「ほんとよね~。あ、猫ちゃん起きたの~?」
がらりと元気よく引き戸が開いて、またまた懐かしい声が飛び込んできた。
のそり、と体を起き上がらせてふるふると立ち上がってみると、有華ちゃんと入れ替わるようにさっきの声の主である三人が私の視界を塞ぐように覗き込んでくる。
「おお、ちゃんと動いてる! 元気そうだし、大丈夫じゃね?」
最初に私に無遠慮に手を差し出してきたのは、やっぱり累ちゃんだった。
別にこの手が危害を加えるわけじゃないってことは分かっているんだけど、自分の身体に対して大きい掌がぬおっと迫ってきたので、反射的に後ずさってしまう。
動物の本能ってめんどくさい……。
「累、慣れないところで怯えてるのよ。そっとしてあげなさい」
……さっきまで鈴ちゃんに言われてたことじゃない、それ。
そうツッコミたくても今の私の声帯は「にゃあ」と鳴くことしか出来なくて。
「えーーーっ、つまんねえの……ま、しゃーないか」
その私の鳴き声を怯えてのことだと理解したらしい累ちゃんは、素直に手を引っ込めてくれた。
……少し遠くでくすくす笑いを噛み殺す鈴ちゃんの息遣いが聞こえる。
「でも、大丈夫そうで安心したわ~。はい、これミルクとごはん」
麗子ちゃんが箱の中に差し入れてくれたそれは、どことなく懐かしい、慣れ親しんだ匂いがしたから、安心して口に入れることが出来た。
「校務員さんが言うには、時々旧校舎に来てた母猫と子猫のうちの一匹だろう、って~。与えてたキャットフードまで分けてくれたわ~」
……なるほど。道理で匂いと味を、この体が覚えているのね。
初めて味わうけど初めてじゃない。そんな味わいを感じながら、ペロペロと乾いた体に染みこませるようにミルクに舌を伸ばす。
「たぶんキャットフードも食べれるくらいには成長してる、と思うんだけど……、食欲が無いのかもしれないから、やっぱり念のため病院には行ったほうがいいかも」
そんな私の様子を見ながら、真弥ちゃんが少し心配そうな顔をする。
いや、ミルクにしか口をつけないのは、なんとなく、その。
……やっぱり中身が「私」になっちゃってる以上、キャットフードに口をつけるのが、なんとなく……心理的抵抗があるっていうだけで。
そんな内心が伝わるわけもないので、せめて心配させまいと、ミルクを勢いよく飲み続けるしかなかった。
それにしても……
改めて私を箱の上から見下ろす三人をちらりと見る。
さっきの有華ちゃんの変貌ぶりにはかなり驚いたけど、この三人は一年前の面影を色濃く残している。
多少髪の毛が伸びたな、とか、累ちゃんの日焼け、少し薄くなった……?とか。
そういう細かい変化はあるけれど、やっと安心して再会を噛みしめられる相手と出会えた気持ちになる。
「うん、病院には連れて行こうと思う。……どうしよう? 今日の練習は中止にしたほうがいいかな? それとも……練習のあとでも大丈夫かなあ?」
「えー、それは部長が決めてくれしー」
悩む素振りの鈴ちゃんの声に、累ちゃんが答える。
「そ、そんなこと言われても……私には猫の体調は分からないし……。る、累ちゃんと真弥ちゃんの方が分かるんじゃないの!? だって二人とも医学とかそっち系の受験勉強してるんだし!」
「さ、流石に猫のことは分からないよ!? ふ、副部長助けて!!」
「そんなこと言われても困っちゃうわ~……でも、命のあることだし、病院が最優先でも……」
にゃあ!
そんなふうに戸惑う皆の会話に精いっぱい割り込めるよう、大き目の声で一鳴きすると、全ての注目が私に向いてきた。
そして再び箱を覗き込んだのは有華ちゃん。
よかった。彼女にだったら伝わるはず。
練習を聞きたい。
中断しないでほしい。
そのために私は、ここまで来たんだから。
そんな私の心の声、彼女だったら汲み取ってくれるはず。なんたって血を分けた私の……
「……病院は後でもいいんじゃないかしら。練習の後でも」
いいわ、いいわよ有華ちゃん! 完璧よ!
「え、有華ちゃんその子の言ってること、分かるの?」
「……なんとなく、だけど……どうしてかしら、初めて会った気がしないのよね」
そりゃそうでしょうね。
というかその感想なら有華ちゃんだけじゃなくて、出来ればあなた達全員に持ってもらいたかったところではあるけど。
「あ、それ分かる! 私も最初にこの子を見つけた時、そう思ったの……!」
「鈴も? でも私も鈴も、猫を飼ったことはないはずよね……不思議だわ」
そう首を傾げながら私を見下ろす有華ちゃんの言葉に答えながら、鈴ちゃんの声がだんだん近くなってくる。
「うーん……あ、あれじゃないかな! 先週家で見た、映画のテレビ放送! 喋る黒猫が出てくる……」
「ああ、鈴ちゃんと有華様もあれ、見てたんですね」
「毎年夏になるとあそこのアニメ映画、連続放送するよなー」
「そうね、大体みんなストーリー覚えちゃってるだろうし……確かにあれを見たあとだと、黒猫ちゃんって身近に思えるかも~」
「あはは……まあ当然有華ちゃんは初視聴だったんだけどね……」
「感動したわ……あんな名作映画がカンヌ取ってないってどういうことかしら……」
「カンヌはともかく……、ミルクも飲んで大丈夫そうなら、少しだけ待っててもらおうかな? せっかく集まったんだし、一曲だけでも練習してから……ね?」
そう私の顔を覗き込んだ鈴ちゃんの様相に息をのむ。
有華ちゃんのショートカットも充分心臓が止まりそうに驚いたけど……これは、それとは別の。
一年でずいぶんと伸びた髪の毛を両側でおさげにした鈴ちゃんのその姿は。
『猫ならよかったなあ、って思うんですよね』
あの日の灯音に生き写しだった。
* * *
「じゃあ、始めるよ」
そう鈴ちゃんが声を掛けると、全員の空気がピン、と張りつめる。
鈴ちゃんの最初の一音を聞き逃すまいという程よい気迫。きっと何度も繰り返されているであろう、演奏のための儀式。
曲は、去年と同じ懐かしい「水の変態」。
今年もこの曲でグループ奏に出ているのだろうか。それとも単純に、このメンバーで練習するときはこの曲、みたいなものなのだろうか?
分からないけれど……私にとっても思い入れの深いこの曲を、もう一度彼女たちの演奏で聴けることが単純に嬉しかった。
演奏が、音が始まる。
……水が、表情を変えていく。
もともとこの曲は、様相を変えていく水の状態を叙情豊かに表現する、技巧以上に解釈と表現を求められる曲ではある。
だけども去年……私の引き起こした一連の騒動をきっかけとして、有華ちゃんから「解釈と表現」を徹底的に叩きこまれたであろう彼女たちの演奏。
一年前も充分な成長を見せつけてくれたけれど……その成長は想像以上のものだった。
真弥ちゃん。
皆を支える縁の下の力持ちに相応しい安定感。
一年前は「自分が支えるんだ」という気合や責任感のようなものが多少演奏に現れていて、ところどころ硬い部分があったその音には、明らかに精神的な余裕からくる柔らかさが産まれていた。
累ちゃんもまた同じだった。
音が走る癖、周りに合わせることが苦手だった彼女の音は、今やしっかりと二人三脚……いや、5人6脚を余裕でこなしている。
この調子だったら100人101脚くらいまでだっていけちゃうんじゃないかって、そう思えるくらいに。
麗子ちゃんに至っては、彼女の抱えていた過去から考えたら仕方ないんだけど……もうまるで別人の演奏。
技術の面でも表現の面でも、有華ちゃんに追いつく寸前まで来てる。
彼女の出自、隠れてやっていた練習量を考えたら納得する話ではあるんだけど、それよりも何よりも私は……麗子ちゃんがのびのびと、自由に演奏しているのが嬉しくて、少し涙が出そうになる。
……有華ちゃん。
あの最後の演奏の時、「みんなの音が聞こえた」と涙していた彼女は、どうやらあれからもちゃんと、周りの音が聞こえるようになったらしい。
自分の音に没入し、酔いしれるのではなく。
皆が重ねて奏でるその音をしっかりとその耳でとらえて、そしてそこに自分の音を重ねていく。
その喜びをかみしめるように音を紡いでいる姿に、胸が締め付けられるようだ。
……私の未練に巻き込んで、一時はその人生まで狂わせてしまいそうになった彼女がこうして、仲間との演奏を楽しめるようになるなんて。
感無量、とはきっとこのことだろう。
そして……鈴ちゃん。
変わらない。彼女だけはあの時と変わらない。
夜の暗闇を照らす月の灯。道しるべの鈴の音。
あの時から……彼女はずっとこうだった。
私の愛した灯音の演奏を引き継いだ……技術とかそんな話ではなく、音の中に浮かび上がる魂……そんなものを、彼女の演奏は持っている。
「おばあちゃんみたいな、人を助けられる尼さんになりたい」
彼女が抱える願い。その純粋な願いが、彼女の才能……音楽を通して発露しているのではないかと思わせるような……
そんな5人の音が、ひとつのズレも無駄もなく重なりあって、広がっていく。
明らかにあの一年前の夜と違う……もっと深く、もっと大きい音のうねり。
それは彼女たちのこの一年の成長を感じるには、充分すぎるほどの結果だった。
……良かった。私が彼女たちに与えたのが、恐怖や傷だけじゃなくて。
そう、それが私の彼女たちへの心残りだったのだと思う。
だからそれを知れて、しかも良い結果だったという事実に安心してしまったのだろうか。
この猫の身体はどうにもとても、すぐに眠くなるようで……
雹のパートに移ったころには、私はすっかりと箱の中で、静かな寝息を立てていたのだった。
* * *
──次に「私」が目が覚めたのは、ゆっさゆっさとリズミカルに揺れる箱の感覚と、屋外の空気の中だった。
「それにしても、合奏の音ってそこそこ大きいはずだよな? あの音の中で熟睡できるなんて、こいつ大分根性あるし」
箱の外側からそんな声が聞こえる。
「確かにね~、猫って大きな音に敏感なイメージがあったから心配だったんだけど~」
「きっとお腹もいっぱいになって、安心したんじゃないかな。それに子猫はよく眠るってさっき調べたサイトに書いてあったよ。……鈴ちゃんが見つけた時も、眠っていたんでしょう?」
「うん、旧校舎の玄関前の日陰ですやすやと」
「たぶん、公務員さんが仰ってたたまに来る野良の親子……だと思うのだけど。一匹だけはぐれちゃうなんて、ずいぶん自立心の強い子猫なのね」
……ちくり、と胸が痛む。この体を借りてる子猫にちょっと申し訳ない気持ち。
少し筝曲部の様子を見たら、親猫の所に戻って体を返そうって、そう思っていた。……子猫の身体がこんなに眠気を伴うものだってのと、鈴ちゃんに見つかるっていうのが想定外だっただけで。
「それにしても……皆でついてこなくても良かったんだよ? 病院、私だけで行くつもりだったのに。皆受験勉強で忙しいんじゃないの?」
その鈴ちゃんの口ぶりだと、鈴ちゃんだけは受験勉強をしない、ってことになる。
……灯音の後を、継ぐんだろうか?
「いいじゃん、どうせ今日は久しぶりの5人の練習ってことで、一日オフの予定にしてたし!」
「そ、そうなの!? なんか申し訳ないよ……」
「受験勉強には適度な息抜きも必要なのよ~。私達にとっては、お箏を引くこととそのあとお寺に遊びに行くことが、最高の息抜きってわけ~」
ふわふわと笑う麗子ちゃんの表情。
一年前までの、全てを煙に巻くための笑顔ではなくて……出会った頃みたいな自然な声色に、思わず箱の中でうるっとしてしまう。
「それにて累だってここ最近は、かなり勉強を頑張っていたし……今日くらい息抜きしても大丈夫、ってちゃんと計算してるのよ」
「驚いたわよ、舞原さんってやる気になれば勉強出来るのね。……なんでやらなかったの?」
「うっせー!! やれば出来たじゃなくてやるしかねえんだよ! ちくしょー、専門学校なのに受験があるなんて、聞いてねえし……!」
「あはは……そうだ、真弥ちゃんは大丈夫? 受験勉強だけじゃなくて、生徒会の引継ぎがあるんじゃない?」
「うん、大丈夫だよ。もうあらかた資料は作り終ってるし……私も累ちゃんたちと同じ、今日は息抜きのつもりだったから」
「それにしても、なんやかんやで任期を務めあげちゃいそうだからびっくりだよなあ、真弥っちが生徒会に入るなんて、一年前じゃ想像できなかったし」
「あはは……菅野先生にあれだけ推薦されたら、期待を裏切れないし……生徒会って言っても私は裏方だから」
「謙遜しなくていいのよ~団体奏の監督を立派に勤め上げた真弥ちゃんだったら出来る、って先生の判断だったものね~」
「そうね、去年の今頃の泣きべそだった真弥さんと、まるで別人みたいだわ」
「ゆ、有華さま~!? それは言わないで下さい~!」
明るい笑い声が雑踏の中、響く。
「そ、そんなこと言うなら有華さまだって、去年の今頃と比べたら別人なんですからね!?」
「私が? そんなつもりはないのだけど……」
「いや、別人だし。別人28号」
「そうね~。その髪の毛、まだご実家には見せてないんでしょう?」
「うん……私もそれ心配してる。来週の帰省で有華ちゃんのご両親、卒倒するんじゃないかって……」
なるほど、有華ちゃんの髪の毛はどうやら、最近短くなったらしい。
「そんなに変、かしら……?」
「へへへ変じゃないですよ有華さま、寧ろ超お似合い麗しいにプラスして凛々しさが乗っかった感じで私はその、大好きなんですけども!」
「お、おう……すげえ早口で喋るし……」
「でも最初に見た時は流石にびっくりしたわね~、どうしても黒髪ロングのイメージが強くて」
「そうそう、ウチらの中では皇=黒髪ロング、になっちゃってたんだよなー。……ほら、強烈な印象の黒髪ロングの皇さんが、有華と合わせて二人いたもんだから」
突然、自分のことを言われて箱の中で飛び上がる。
……まあ確かに、だから私も有華ちゃんのショートカットにびっくりしたんだけど。
「……だからなのよね」
有華ちゃんが少し、重たい口調になった。
「私もね、小夜子さんに憧れて髪を伸ばしていたところはあったの」
「あ、そうだったの? 偶然じゃなくて……?」
「元々切るのが面倒で伸ばしていたけど……小夜子さんのことを知って、その写真を手に入れてからは意識して手入れしてたわね」
「でも、そろそろいいかなって思ったの」
何がそろそろなのか、とか。
彼女の言葉は説明には全然足りていなかったけど。
4人と、そして私はその言葉で充分分かってしまった。
この断髪は、有華ちゃんが「自分」の道を生きる、と決めた決意の表れなんだって。
だから誰も、聞き返さなかった。
「……そうだね、それに朝がだいぶ楽になったから、有華ちゃんにはショートのほうが向いてるよ。今まではほら、寝ぼけてドライヤーあてちゃって髪の毛焦がしたりしてたし」
「ちょ、ちょっと鈴!! それは言わない約束でしょ!」
「寺暮らしももう一年になるってのに、有華は相変わらず朝、ダメダメだしなー」
「この間の合宿の時も、朝の食堂に向かう廊下で派手に行き倒れてたものね~」
「大丈夫ですよ有華さま、私が毎朝お手入れしますから、また伸ばしても……」
雑踏のざわつきの中、少女たちのおしゃべりが響く。
あの夜から一年。
私の起こした出来事が、未来ある今を生きる彼女たちの暗い影になっていないか。
それだけが気がかりだったけれど。
こうして夢のような里帰りの時間を貰ったことで、私の心の引っ掛かりもずいぶんと軽くなった気がする。
「あ、お祖母ちゃんからLINE……。やった! 猫ちゃん、連れて帰っていいって。仏間だけは入れないように、って」
「よかったわね~、まあおばあ様ならそう言うと思ってたけど~」
「よーし、病院で見て貰ったらペットショップに行って、お世話グッズ買おうぜ! 皆で出し合えば足りるっしょ!」
「いざとなったら私が父から預かってる家族カードで」
「大丈夫ですよ有華さま、そんなに高額なグッズ買いませんから!」
こうして新しい道へと歩き出すきっかけに、少しでもなれていたのだったら。
……それで私の罪が消えるわけではないけれど、それでも少しだけ……私が私を許せる道に近付いている。
彼女たちに会いたい、という私の願いは実のところ、私自身を救うための願いだったのかもしれない。
そう気付けたから、きっともう充分。
そろそろ私も、この幸せな夢から去らなくては。
『もういいの?』
そう、私に語り掛けてくる声にうん、と返した。
『オテラ?に行かなくていいの? 会いたい人が、いるんでしょう?』
うん。
だけど行かなくていいの。
『どうして?』
約束したから。
『やくそく?』
そう。
次に会うのはもっとずっとずっと先って、約束したの。
だから……今はいいの。
『そう』
……ありがとう。
『うん。……もう行っちゃうの?』
うん、行くよ。
ありがとう、力を貸してくれて。
『ううん……でもわたしはどうしたらいいかな』
そうね……もしあなたが嫌じゃなかったら……このままお寺で一緒に暮らすのがオススメよ。
少しうるさいかもしれないけど……。
『うるさい?』
うん、お箏……さっきの楽器が毎日鳴ってると思うから。
『……あの音。わたし、きらいじゃない』
そう、良かった。
だったら……わたしの代わりにお寺に行ってくれる?
それで、この子たちや私の大切な人の傍に、いてくれるかしら。
きっと雨風はしのげるし、ごはんも貰えるから。
『わかった。……あのね』
もうすぐ行ってしまう私に、声は追いすがるように言った。
『わたし、たぶんこのニンゲンたちより先に、あなたのいるとこに行くとおもうから』
『そしたらいっぱい、おはなしするね。わたしがみてきた、このにんげんたちのこと』
ありがとう。
だけど出来るだけ、ゆっくり来てほしいな。
長くながく、彼女たちのことを見てきてほしいの。
そういうと声の主は、短く喉を鳴らして返事をして。
私はそれを聞き届けて、風と混じって彼女の頬を撫でてから……
* * *
ミャアアアア!
「わっ!?」
「ど、どうしたし!?」
「分かんない、急に箱の中で……! さっきまでこんなに大きな声で鳴いたこと、なかったよ!?」
「ゆ、揺れて気持ち悪くなっちゃったのかな……ちょっと開けて覗いてみよう!?」
ミャアアアア! ミャアアア!
「どうしたんだろう……ずっと上見て、鳴いてるよ?」
「ほんとだ……何か見えてたりするのかな?」
ただ声を枯らして、力の限り。
空の向こうへと帰っていくあのひとに、私の声が届くように。
誰にも知られず帰って来て、誰にも知られず帰って行く、あの優しいニンゲンを送る声を、せめて出来るだけ、長く。
私のその声に戸惑って、口々に何か言いながら私を覗き込むのニンゲンたちの中、彼女だけが……あの優しいニンゲンによく似た顔をした、彼女だけが。私と同じほうを見上げた。
見えているのだろうか? 何か気付いてくれたのだろうか? 分からない。だけど少しだけ微笑んで、小さく言ったのを私は聞いた。
「……ありがとう、私たちは大丈夫です」
そう言いながら私に伸ばしてきたその白くてきれいな手のひらに、私は頭を摺り寄せた。
<end>