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それから後のことはよく覚えていない。気付けば自分の部屋で、背中を丸めてうずくまっていた。ハーフパンツの裾から覗く両膝がすりむけていた。何度も転びながら走ったのだろう。気付いた途端に傷は傷としての役目を思い出したように、じくじくと痛み出した。
ユキちゃん――伏石(ふくいし)幸子(ゆきこ)ちゃんは、事故死として処理された。とある会社の社長令嬢だったらしく、翌日の新聞に小さく取り上げられていた。僕は広い個室を思い出して一人頷く。
菊池からは何度か電話があったらしい。僕はずっと寝たふりをしていたし、母もわざわざ取り次ぐことなどしなかった。そのうちあいつも諦めたのか、電話がかかってくることはなくなった。そうして残りの夏休みは、自分の部屋に閉じこもって過ごした。父も母も自堕落な生活を送る僕をひどく叱り、時に殴られたが、外に出て菊池と顔を合わせることを思えば何だって耐えられた。
そして九月。ついに恐れていた新学期がやってきてしまった。あの両親が欠席を許してくれようはずもなく、僕は重い足を引きずりながら登校した。しかしそんな僕を待ち受けていたのは、思いもよらぬ現実だった。
菊池が死んだ。
表向きは交通事故とされていたが、自殺の可能性が高いらしい。学校中その噂で持ちきりだった。
始業式の最後に、全校生徒で黙祷をした。僕は目を閉じて、菊池の顔を思い出す。唐突すぎる別れだった。
放課後、担任の教師から呼び出しを受けた。クラス代表も兼ねて葬儀に出席してきて欲しいと言う担任に、僕はうつむいて答えた。
「クラス委員でもないのに、どうして僕が?」
すると担任教師は少し驚いた表情をした。
「どうしてって、お前、菊池と仲良かったんだろう? よく二人で遊んでいたそうじゃないか。あの菊池が特定の友人を作るなんて驚いたが、その友人がお前だって聞いた時はもっと驚いたぞ」
周りにそんな風に見られていたとは初耳だった。それならば、
「教えて下さい、先生。菊池は自殺だったんですか?」
その特権を使わない手はない。
「滅多なことを言うもんじゃない。菊池は交通事故だったんだ」
「それならどうして自殺説なんて流れるんですか? ただの交通事故ならそんな噂はたたないでしょう」
担任教師は眉間にしわを寄せて難しい顔をしたが、やがて深いため息をつくと、口を開いた。
「菊池はな、末期癌だったらしい。お前、一緒にいて気付かなかったか? 薬で抑えてはいたものの、だいぶ体にきてたらしいが」
気付かなかった。一緒にいたとは言っても、僕はほとんど寝ていただけだ。その間に隣であいつが苦しんでいたなど、露ほども知らなかった。
「先月容態が急変してな、本人は今まで通りの生活を望んだらしいが、これ以上は無理だろうってことで今学期からの休学届けも出てた。その矢先にこれだからな。まぁ、あとは入院中に交通事故にあったっていうのも引っかかるんだろうが、何のことはない。気分転換に外に出たら事故にあってしまったというのが真実だ」
担任は不幸な事故だったんだとくり返したが、僕はその話を菊池と結びつけることが出来なかった。気分転換に出た先で事故にあって死んだなど、到底信じられなかった。
「だいぶ弱っていたんだろう。歩道橋の階段も上れず、大通りを渡ろうとしたところを車にはねられたっていうんだから――」
歩道橋。
僕は担任教師につかみかかるほどの勢いでその場所を訊ねた。
菊池が人生を終わらせたその場所を。
思えば、あの日からちょうど一ヶ月ぶりだった。階段の両端には二人への花束が供えられている。
ユキちゃんと菊池へのものだ。
スロープをゆっくりと上りきると、階段の隅に銀色に光るものを見つけた。僕は小さくため息をついてそれを取り上げる。
菊池はやはり単なる事故ではなかったのだろう。自殺というのも違う。あいつは自分でこの世を卒業することに決めたのだ。自分の死期を悟り、もがき苦しみながら死に向かうよりは、平凡な日々を過ごす自分のまま、その人生に終止符を打ったのだ。
そう考えながら、僕は小さく笑った。こんな風に動機付けてしまった僕を、きっとあいつは笑うだろう。
周りが噂するような仲の良い友達では決してなかった。
それでも、周りの誰もが決して築き上げられないような友情を、僕たちは確かに築いていた。
細い銀のフレームを指で辿りながら、僕は思い出す。
あいつと過ごした短い日々を。
「君の隣はなかなか悪くない」
そう言ったあいつの楽しそうな顔を。
滑らかなラインを取り戻したフレームを持ち上げ、真新しいレンズに書かれた文字を見つめる。
「君と過ごした夏はなかなか興味深かった」
右上がりの角ばった文字。僕は再び微笑んだ。
あいつは最後まであまのじゃくだった。
興味深い。それは、楽しいとか面白いってことだったんだ。その証拠に、あんなにも楽しそうに笑う菊池は、とても重病人には見えなかった。
素直じゃないという点では負ける気はしないが、今日ここに来ることを見越されていたという点については、僕の完敗だった。
目を閉じると、早とちりな秋風が頬を撫でていくのを感じる。そういえば、いつの間にか蝉の鳴き声もほとんど聞かなくなっていた。近々、僕の居場所は図書室に戻るだろう。
「猫みたいなやつだ」
菊池の声が聞こえた気がして目蓋を開くと、空は茜色から薄闇色へとグラデーションを描き始めていた。
僕たちの夏は逝こうとしていた。
了
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