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[作品タイトル] フォーシング
[応募者名] 栖坂 月
空の色が、刻一刻と塗り替えられていく。
衣替え直前の九月末日、資料室という名の文芸部室は鮮やかなオレンジ色に染まっていた。あと十数分で陽は沈み、周囲の色は急速に失われていくことだろう。この僅かな瞬間を美しいと思うのは、人が人として生まれた故のことなのか、それとも生物として当然の感情であるのか、人以外の存在になり得ない者には不毛な疑問でしかないだろう。
人はずっと昔から、人ならざるモノの心理を描き続けてきた。それが真に正しい思いであるのかどうか問われれば、正確には否と回答するべきであろう。しかしそれでも尚、人以外の存在の意識を描こうとするのは、そこに人と同じ何かを見出そうとしているからなのではあるまいか。
人だけが選ばれて、人だけが穢れてしまったのではないと、そう信じたいがために。
猫が鼠を狩る時に悪意を抱くのかどうかを考えかけて、彼女は頭を振りながら有名な近代小説を閉じた。小さな折に読んだ記憶はあるものの、当時は読みやすく書き直された現代語版であったことから、原文はどんな感じなんだろうと興味本位に開いてみただけの本だ。格別好奇心に動かされての読書という訳ではない。もしそうであったなら、夕刻に揺らめくオレンジ色の輝きに気付くこともなかっただろうし、いつの間にか照明が点いていたことだろう。まして途中で本を閉じて帰宅しようなどとは、露ほども思わなかったところだ。
「……もうこんな時間か」
立ち上がり、読みかけの小説を元の書棚に戻して三年間愛用したカバンを持ち上げる。ザッと部屋を見回して忘れ物がないことだけ確認すると、そのままいつもの調子で扉へと足を向けた。その際視界の端に普段は見慣れない陰気な物体がよぎったりしたが、超常現象の一切を支持しない彼女には見えていないようだった。
「って、本気で無視ですかっ!」
さすがに声まで聞こえては、幽霊扱いという訳にもいかない。
「田中くん、いたの?」
溜め息混じりに応じてやることにする。
「最初からいましたよ。というか、ずっと目の前にいたのにそりゃないでしょ」
「ごめんごめん、文芸部の部室で本も読まずに頭抱えているから、新手の自縛霊かと思ってさ」
弁解するにしても酷いレベルである。
「後輩の、しかも新入部員が目の前で頭を抱えて悩んでいるってのに、二時間以上も無視した挙句自縛霊扱いとは……」
「悪かった悪かった。じゃあ私帰るから、戸締りヨロシクね」
「はぁ……って違うでしょ!」
「違う?」
「もっとこう、こんな状況に相応しい言葉が他にあるでしょ」
「あーあー、それじゃあ田中くん、さようなら」
「はいさようなら……って違うわっ!」
「田中くん、最近ツッコミが上手くなったねー」
「嬉しくありませんよっ! 実は、ちょっと悩んでいまして……」
「聞こえない聞こえなーい」
耳を塞いで声を張り上げる様は子供そのものだ。なまじ見た目が大人びているだけに、余計滑稽に映る。
「聞いてくださいよ、部長。変なこと相談されて僕も苦しいんですよぅ」
「私の座右の銘はね、君子危うきに近寄らずなの」
「思い付きで適当な嘘吐かないでください。ついこの前は棚から牡丹餅が座右の銘だって言ってたじゃないですか」
「田中くんって頭悪いのにつまんないことは憶えてるのね」
「余計なお世話ですっ!」
「……で、何がどうしたの?」
仕方ないとばかりの溜め息を盛大に吐きながら、カバンを置いてパイプ椅子に腰を下ろす。本を読むには少し暗い環境だが、話をするだけなら支障はない。まして彼女は長話などするつもりは毛頭ないようだ。
「聞いてくれるんですか!?」
「聞かなきゃ帰してくれないでしょ。手早く済ませてよね。それと、もちろん無料って訳じゃないんでしょ?」
「うっ……じゃあパフェで」
「とりあえず聞くだけなら妥当な取引ね。いいでしょう」
田中は安堵しつつも財布の中身を思い出して眉根を寄せる。彼の財布に残っていた最後のお札は、これで確実に消えてしまいそうだ。とはいえ、こんな奇妙な相談を持ちかけられるような友人は他にいないこともあり、諦めるより他に選択肢はない。
「まぁ、聞いてくれるだけでもいいか……」
「で、どの程度皮が被っているのかなんて、そんな気にするほどのことでもないと思うんだけど」
「皮? 何の話を……」
「何って、包茎の話でしょ?」
「何の話をしてるんですかっ!」
「悩み事ってそういうことじゃないの?」
「違いますよ。もっと真剣で深刻な悩みです」
「もっと真剣って、ひょっとして水虫とか痔?」
「病気から離れてくださいっ!」
「失礼ね。包茎は病気じゃないのよ」
「だからー、その話はもういいですってばっ!」
「はいはい、ちょっと場を和ませようとしただけなんだからムキにならない」
その人を小馬鹿にしたような態度がいささか、というより極めて気になるものの、田中は座り直して話を戻すことにした。実際、悔しいことに意識が落ち着いている。先程まで混乱の最中にあった頭の中は、まるで台風一過の空の様に晴れ渡っていた。
「……じゃあ話しますけど」
「どーぞ」
「実は僕も当事者って訳じゃなくて、相談されたというか愚痴をこぼされたというか、聞いただけの話なんですけど……」
そんな前振りに続いて、一つのエピソードが深い紫色に染め抜かれていく部屋に染み渡る。それは極めて単純で、しかしどこか不可解な話であった。
一組の恋人がいた。取り立てて特筆するような良い点も悪い点も見当たらない、言ってしまえば標準的で平均的なカップルだ。少なくとも女の方は、相手との関係をそう思っていた。
だがある日、男が同じ大きさの二つの箱を取り出して女に告げた。
「二つの内の一つには、きっとキミが喜ぶような物が入っているよ」
箱は片手に収まる程度の大きさだ。すでに付き合って三年と数ヶ月、ひょっとしたらという思いがあっただけに、女は直感的に片方には指輪が入っていると思った。この時、もう片方に何が入っているのかを知っていたら、嬉々として気軽に選んだりはしていなかったと後悔している。
そして彼女が選んだ箱には『ハズレ』が入っていた。
男は明確な理由を告げることなく、その箱に入っていた紙の文面を読み上げた。それがもちろん、二人の恋人としての終焉を意味するものだと知った上で。
ただ唖然とする別れを告げられ、女はしばらく何一つ考えることができなかったが、次第に意識を取り戻していく内に、どうしても納得がいかないと思うようになっていった。確かに彼女は指輪を選べなかったが、だからといって即座に別れることは極端であると思えたし、そういう選択肢であったなら最初にそう告げてもらいたかった。覚悟すらしないまま最悪の選択をしてしまったのでは後悔しても仕切れない、それが偽らざる女の本音だった。
そこで女は男に連絡を入れ、もう一度だけチャンスをくれないかと打診を行った。最初は渋っていた男だったが、情もあり理解し合えていた相手の言葉を無視することもできず、もう一度だけ選択をする機会を与えられることになった。
しかし、これで女の不安が消えた訳ではない。むしろ深くなったとすら言える。何故なら、もう一度の失敗は完全な別れを意味するものだからだ。それを回避するためには、どうしても『アタリ』を選ぶ必要がある。しかし見た目に違いのない二つの箱は、明確に確率五割を演出している。
彼女の何より深い苦しみは、すぐ目の前に転がっていたと思っていた幸せが、たった五割の確率でしか手に入らなくなってしまったということだ。その事実を恐れ、女は日々を絶望し、未来を悲観している。
そんな話であった。
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