[作品タイトル] 303号室(の/と)彼女
[応募者名] 古都絢
ヨシカズ、と甘ったるい声が背後から掛かった。
僕をそう呼ぶのは一人しかいない。他の人間は、クラスメイトでも先輩でも後輩でも、苗字とか別の渾名を呼ぶ。彼女が怒るからだ。
「ヨシカズをそう呼んでいいのはあたしだけなの」と、麻衣子は言う。拗ねて膨らませた頬が、それでも可愛いギリギリの範囲をきちんと理解した表情で。
僕達が付き合い始めた頃は、揶揄ってわざと僕をそう呼ぶ連中もいたけれど、ああ見えて麻衣子は本気だ。僕の知らないところで彼女がその本気を思い知らせる何やかやがあったのかも知れない、というか多分あったのだと思うが、そのうちに僕をヨシカズと呼ぶのは、彼女だけの特権に落ち着いた。……特権、は大袈裟か。
「ヨシカズっ、ねぇねぇ聞いて?」
少しだけ歩調を緩めてやると、追いついてきて隣に並ぶ。上目遣いで強請る口調は彼女の得意技だ。然して身長差のない僕達の間で上目遣いを成立させるには、彼女の上半身はかなり傾かなくてはいけない。
「何?」
さすがにその姿勢で歩き続けさせるのは可哀想になって立ち止まる。何が楽しいのか、満面の笑顔で、麻衣子は僕の耳元に唇を寄せてきた。
「あのね、あのね……ホテル行かない?」
「は?」
思わず素頓狂な声が出た。学校の廊下で何を言い出すんだ、この子は?
「あのさ、ちょっと」
自分の発言の不適切さを全く自覚していない様子の彼女を引っ張って、とりあえず隅へ連れて行く。昇降口の隣、滅多に使われない来客用のビニールソファに座らせれば、おとなしくすとんと腰をおろして見上げられた。
ああ……うん。彼女が上目遣いを武器にするのは、つまり、僕がそれに弱いということを能く知っているからだ。
女の子が昼間からそんなこと言うものじゃない、と叱ろうとした言葉は、彼女の表情を見下ろした瞬間、喉の奥で溶けてしまった。
「どういうこと? 急にホテルなんて」
「うん、あのね、ヨシカズは新宿の「タチバナ」ってホテル知ってる?」
「いや……知らないけど」
そもそも彼女と一緒にホテルに行ったことがないのに、ここで「知ってる」なんて答えたら、浮気を疑われかねないんじゃないだろうか。むしろ、彼女は何で知ってるんだろう?
僕の内心の葛藤など露知らず、彼女は楽しそうに話し続ける。教師が通り掛かったらどうするんだ。
「エマに聞いたんだけどね」
微妙に聞き覚えのある名前。誰だっけ。部活関係? まぁいいか。
「そのホテルでね、前に、殺されちゃった子がいるんだって」
「殺された?」
また予想外に物騒な話になったな。
てっきり「ちょー可愛い部屋があるんだって」とか「サービスのスイーツが美味しいらしいの〜」みたいな流れを予想していた僕の思考が、軽く止まる。
「そ、援助交際やってたらしいんだけどね、相手の男が変態で、何かすっごい酷い殺され方したんだって」
「酷い殺され方って?」
「身体中を切り刻まれてね、犯人の男は、その子の死体と一緒にお風呂浸かって、ものすごい満足そうな顔で死んでたらしいよ」
ああ、都市伝説によくあるパターンな。関係者は死んでるのに、何故か事件の詳細が知られてる。麻衣子がこの手の話に盛り上がる方だとは知らなかった。お化け屋敷なんかでは一緒にいる誰より怖がるタイプだったし。
「でね、その子が殺された303号室に、その子の幽霊が出るようになったんだって」
はいはい。
「ちょっと、聞き流さないでよ」
何でバレた。
「でもね、その幽霊ってね、出る時と出ない時があるの」
僕のジャージの裾が、ぎゅ、と握られた。どうやらここからが本題らしい。
「その子はね、援助とかずーっとやってたんだけど、恋人っていなかったんだって。本当の恋愛とかしないで死んじゃって、それが、すごく心残りらしいのね。だから、本当に愛し合ってるカップルが泊まった時だけ、現れるんだって」
真実の愛判定機能付き幽霊。うわぁ。便利だ。
「ちょっとヨシカズ、信じてないって顔に書くのやめてよ」
「いや、そういう訳じゃ……」
語尾が消えたのは、まぁ、抗弁する言葉がなかったからだ。態々その幽霊を見にホテルに行こうっていう訳だ。出なかったらどうするんだ? 僕達の愛は偽モノでしたって反省会でも開くか? そもそも幽霊なんて本気で信じてるのか?
言ってやろうかな、と思った言葉は、だけど一瞬の迷いの後、全部が喉より上にはいかないで胸中に落ちる。
「ねぇ、ヨシカズ」
そう呼びかけてくる、彼女の表情があまりに真剣だから。
「……あたしのこと、好き?」
「……うん」
僅かに目を逸らして答えたのを、麻衣子は指摘してはこなかった。いつものことだと、分かってるんだろう。こんな遣り取りに何の意味がある? 人間は嘘をつけるように出来ているんだから、好きだとか愛してるとか、100回言ったって何の証明にもなりはしない。
付き合い始めて何ヶ月かした頃に、その本音を言ったら、それまでで一番悲しそうな顔を見る羽目になった。それ以来、彼女の「好き?」には、適当な相槌を打つようにしている。相槌だと麻衣子も分かっているのだろうけれど、それ以上は何も言ってこない。
言ってこないだけで、そこに積もった何かの感情が、今こうして彼女を動かしているんだろうというのは、分かった。分かってしまった。
「……いいよ。いつ行く?」
それ以外、その時の僕に何が言えたっていうんだろう。
決行日は翌木曜日。平日料金でないと高校生の僕達にはハードルが高過ぎるから。
駅のトイレで私服に着替えて、声をかけなきゃいつまでも鏡の前から動かない麻衣子を引っ張り出して、チェックインしたのは19時少し前。
「タチバナ」は和風の名前の割に、外見はよくあるシンプルスマート、って感じのシティホテルだった。問題の303号室は空いていて、曰くつきのくせに値段は他と比べて別に安い訳でもない。
「こんな風になってるんだー……」
入り口に揃えてあるスリッパは無視して、麻衣子はぺたぺたとフローリングの室内を歩き回る。制服の詰まったバッグをその辺に放り出して、僕はベッドサイドのソファに腰掛けた。目の前のローテーブルには灰皿やらホテルの案内やらが整然と重ねられている。
どこからどう見ても、普通のホテルだ。
入った瞬間に寒気がするだの、何となく照明が暗い気がするだの、そんなことも全然なかった。
「気が済んだ?」
ホテル案内のページを捲りながら、バスルームを覗き込んでいる麻衣子に声をかけた。コスプレ貸し出します、のページには有り得ない露出度のナースやメイドの写真が並んでいる。……そそられない。
「何言ってるのっ」
バスルームから返ってきた声は決然とした否定だった。そりゃそうか。
「何か起こるまで、ここで2時間待機?」
「そだよ!」
バスルームチェックには満足したらしい。戻ってきた彼女は勢いよくベッドの端に腰掛けた。流石にこの部屋の主役だけあって、スプリングが気持ちよさそうに弾む。
「じゃ、カラオケでもする?」
「やだ、通信じゃないじゃん」
ですよね。
僕だって、決して安くはない金額を払って、懐メロ大会がしたい訳じゃない。
「それじゃ、もっと別のこと?」
「え……えっと」
ほんの少しだけ低くした声音を出せば、その意図に気付いて、彼女は口篭もる。室内を散々はしゃぎ回っている姿が実は虚勢でしかなくて、内心では緊張しているのだ、なんて。それに気付かないほど、僕だって鈍くはない。けど。
「あ、あたしお風呂入れてくる!」
……逃げられた。
「まぁ、いいけどさ」
独り語ちて、ソファから立ち上がる。上着をその辺に脱ぎ捨ててベッドに潜り込み、何処か外国の景色をバックに「ごゆっくりお寛ぎください」という文字が延々映っているTV画面が、何だか邪魔だったから消してしまう。
何だかこう、「さぁ、お膳立てはばっちりです。好きなだけヤって下さいどうぞ!」みたいな環境だと、あんまりその気がかきたてられないのは僕だけなんだろうか。折角だからしとこうか、みたいな気分と、まぁ純粋にそういうことしたいのと、でもそこまで肉欲全開じゃねぇよ、みたいな。
いやでも全開なのが普通なのかも知れないな。コスプレだオモチャだ各種取り揃えて、高い金払って、何時間かの快楽に耽る訳だ。
まるで、そういう類の娯楽のようだと思う。気持ちの良さと愛情ってのは別物として切り分けられる。好きな相手と寝てたって、そう実感する時がある。
その、援助の挙げ句に殺されちゃった子っていうのは、どうだったんだろう。
"本当の恋愛とかしないで死んじゃって"
そんな風な都市伝説にされて。
でも、本当の恋愛って何だろう。本当に彼女は恋をしたことがなかったんだろうか。
好きな人と抱き合えば、金絡みとは全然違うセックスの筈だ、なんて信じ込んでいたんだろうか。
幻想だよ。
本当の恋愛なんて、そんなものがあるのだというのなら、それこそが、
「……都市伝説だよ」
「え? 何か言った?」
バスルームからの声に「何でもない。TV消したよ」とだけ言い返し、僕は目を瞑じた。
このまま寝てしまったら、麻衣子は怒るだろうか。それとも安堵するだろうか。
まぁいいや。ホテルまで来ておいて、しない、っていう選択肢も考えようによっては贅沢じゃないか。真夏に冷房効かせて熱い鍋料理するのとかに似てるよな。うん。
バスルームから出てきた足音が、何も言わずにぺたぺたと歩いて、電気を消す。室内が暗くなるのを、閉じた瞼の裏で感じた。
睡魔。
「ねぇ」
暗闇の中、耳元で、甘ったるい声。
絡みつくような眠気の隙間に吹き込まれる。
「こういうとこ、慣れてる?」
何て答えるべきか、少しだけ迷った。
「……初めてじゃ、ない」
「そっか」
相槌。それ以上に追求はされなかった。
「嫌いじゃないんだ、こういう雰囲気。義務的なまでの性欲推奨がなければ」
「ぎむてきなまでの、せいよくすいしょう」
鸚鵡返しされた後、あはは、と彼女の笑い声。
「その言い方、面白い。そうだねー、そっかも」
ベッドの横の重みが、笑い声に合わせて弾んだ。
「身体だけで人を好きになることもあるし、精神だけで好きになることもある。肉体も精神も、好意を表現するための一つの手段であって、「何」を、乃至は「誰」を好きになるかは、別問題と思う。僕の個人的見解だけれどね」
「……何か難しい」
「噛み砕いて言えば、好きだったら抱きたくて当然だとか、愛のない関係は道徳的じゃないとか、馬鹿じゃねぇの? ってこと」
「身体」と「心」と「対象」と「動機」。僕が言ってるのは、それらは完全にシャッフル可能なんじゃないか、ってことだ。凡そ現実的な案じゃないのは分かってる。
だけどそれでも主張したくて堪らなかった。そうせずにはいられなかった。その強い衝動は、眠気を完全に霧消させた。
「男と女、心と体、それが必ずしも一対でなければならないとは、僕には思えない。身体だけは相性がいいなんてよく聞く話だし、片方は相手が好きで、もう片方は金が好きで寝ることだって幾らでもある。そこに唯一絶対の「真実」なんて求めようがない。言葉も身体も精神をそのまま反映なんてしない」
麻衣子が好きだ。
その気持ちは確かにあるのに、なのに、気持ちだけが、他の何とも結びつかずに、結びつけずに、いる。
「……そうは思わないか?」
隣にある、柔らかい身体に問いかければ、「んー……」という唸り声が返された。
「あんま、一般的な考え方じゃないよね」
「一般的とかどうでもいいし」
「嘘」
鋭い否定に、空気が震えた。
気付けば僕たちは、ベッドの上に身を起こして、相手の気配と向かい合っていた。
「どうでもいいとか、嘘。気になるんでしょ? 怖いんでしょ? 一般的というのは、つまり共通する観念よ。相手との意思疎通のための前提よ。だから貴方は逃げてるの。自分の「好き」と相手の「好き」が食い違っているかも知れない、その不安から。だからこんな所まで来たの。そうでしょ?」
ああ。
そうだよ、その通りだ。都市伝説なんて怖くはないんだ。
喋る犬だとか、弁当箱に虫を詰め込んでくる同級生とか、そんな話の中身ではなくて、それを都市伝説にする構造と向き合いたい。正常と異常の境目に立って、その正体を見極めたかった。
「君の言う通りだ。異常と呼ばれる現象の中にあって、自分自身を顧みた時、果たしてそれは他者の理解を得るに足る「正常」さを持っているのか、それを知りたかった。……そうやって、利用しようとしたことを、怒ってるのか?」
認めれば、暫くの沈黙。
ふ、と微笑む気配があった。
「別に」
冷たい指が伸びてきて、僕の胸元に触れた。ひどく近い闇の中から、囁きかけてくる。
「あたしは貴方を好きにならない。でもそれって、多分、あたしが正常だからじゃないわ。そういうことよね?」
「多分ね。君に「本当の恋愛」は分からない。そこに金銭が絡んだからではないように」
「あーあ、ばっかみたい」
存外に明るい声音で言い捨てると、ベッドを軋ませて彼女の身体が離れた。「おい、ちょっと待てよ」、去る気配に慌てて呼び掛ける。
「何?」
「麻衣子どうした。危ない目に遭わせてないだろうな」
「おふろば」
答えになってない。
だけど、文句をつけようにも、その言葉を最後に彼女の気配が消えてしまったのが分かった。
仕方なしに手探りでベッドランプを点けて、バスルームを覗く。
バスタブに凭れるようにして、麻衣子が倒れていた。その身体が温かく、薄く開いた唇から規則正しい呼吸がこぼれているのを確認して、僕は溜息をついた。
ご丁寧に、バスルームの中は血塗れだった。こんなところだけ恐怖演出をしてどうする気だったんだ、あの子は。
ラブホテル「タチバナ」の幽霊の話は、次の週明けにはうちの学校で一番旬の話題になっていた。その裏に、麻衣子の広めた体験談があったのは言うまでもない。
あれから目を覚ました麻衣子は、何があったのかを覚えていなかった。突然の睡魔に襲われたまでだけが、僕と同じ。
それでも幽霊が出たっていうことで、彼女的には一応、満足の得られる結果だったらしい。バスルーム血塗れだったし。
「それってさー、マジなの?」
昼休み、教室。
訊かれる分には別に面倒とも何とも思わないけれど、僕の机に座るのは止めてくれないか、我が級友。
「マジだよ。って、今どういう尾鰭がついた噂になってんのか知らないけど」
「部屋に入ってあんたらがいい雰囲気になったところで、バスルームから女の泣き声と男の笑い声が聞こえて、突然停電になって、明かりついたら部屋中血塗れだったって」
「……うん、まぁ、そのくらいなら予想の範囲内だ」
僕が取り憑かれてエクソシスト並のブリッジでホテル内を練り歩いた、なんて話にでもならなきゃもういい。諦めってのも人間大事だ。多分。
「てことはー、麻衣子と美和はマジカップルってお墨付きになった訳だー」
「さぁね」
「あれ? 冷めてんじゃん」
「幽霊ったって元は人間だろ? そんなもんに保証されたってな」
信用なんて出来ない。
大体あの子、ちょっと可愛かった。雰囲気とか喋り方とか。好みかも。一瞬、暗闇の中で思ってしまった。
勿論それで麻衣子への気持ちが薄れたとか、そんなことは全然ないけど、でも、やっぱ、ちょっと……それで合格判定になっちゃったら、後ろ暗い気持ちになるのは否めない。
「でもー、やっぱちょっと羨ましいかもー。あーあ、この先寂しい独り身の女子校生活が続くんなら、あたしもソッチ方面考えてみよっかな」
「ばっかじゃないの」
そう言って二人で笑う。
「あーあー、早く大学いきたーい。美和もでしょー? したら私服だもんねー。制服でスカートはかされたりしないもんねー。美和ってさー、」
「ヨシカズ」
不機嫌そうな声、教室の入り口から。
ああ、あれは麻衣子、怒ってる。机の上、丁度僕の目の高さにミニスカートの腰。そうですよね。怒られますよね。これが僕の所為じゃなくても。
「ごっめーん」
麻衣子に見えない角度で、片手だけで小さく拝まれた。
「いいよ」
制服の下に重ね穿きしたジャージのポケットに手を突っ込んで、僕は立ち上がった。
こんな苦労もいい。こうやって、少しだけ普通とは違う、「異常」のまま、それでも僕は僕の周囲にある世界と折り合って生きている。
都市伝説にはならずに。
それはきっと幸福なことなんだ。
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