[作品タイトル]
棺の中

[応募者名]
美濃繁 毅

 涼子が死んだのは、一昨日のことだった。



 昨日は通夜で、葬儀が今日。自宅で昼過ぎに始まった葬儀も終わり、霊柩車で市の経営する火葬場へ着いたのが先ほどだ。

 携帯電話で時刻を確認すると、午後五時三十分を回っていた。九州の日暮れは東京よりもずっと遅い。夕暮れの葬祭場で火葬の時間を待っているのは、ごく近しい身内が数人だけである。携帯には職場からのメールが数件入っていた。返信を入力していると、父方の叔父がめざとく見つけてそれを咎めた。

「こんな時くらい、携帯をいじり回すのはやめときな」

 いくら涼子の葬儀だからって。叔父の態度がそう語っていた。



 生前、といってもほんの数日前まで、妹の涼子は数多くの問題を抱えていた。抱えていただけでは済まさず、自らそれを創り出し、周囲に撒き散らし、とことんまで拡大し続けていた。

男関係もだらしがなかったし、高校も中退して早々に関西へ出、怪しげな水商売を転々とした挙げ句に前科を幾つか作り、自己破産のオマケまで付けて家に戻って来た。

 戻ったは良いが、もちろん隣近所との折り合いは最悪で、トラブルが絶えたことがなかった。経済的には両親に寄生していたが、だからといってしおらしい態度などになったことはない。あるときは自分の生涯を嘆き、それを両親に転化し、金を搾り取った。あるときは徹底的に他人を罵倒し、責任をなすりつけた。弱者をののしり、強者に悪態をつき、この世の全てを憎悪する日々が続いた。



たまりかねた両親が心療内科医に相談すると「妄想性、あるいは境界性の人格障害だろうね」との答えが返ってきた。その診断とて、本人が居合わせたわけではなく、普段の行状から医者が判断したもので、処置の施しようもない。

 周囲と折り合いを付けられず、好意も悪意としか受け止められず、相手の心を抉るような言動を繰り返す凉子は、家族どころか近くにいる全ての人間を不幸のスパイラルに巻き込む、瘴気をまとった 悪魔だった。

 地獄の責め苦はこの先もずっと続いて行くのか……。そう諦めかけていた矢先、凉子は死んだ。



 荒んだ生活で体も弱っていたのだろうか、軽い接触事故に遭った次の瞬間、凉子は胸を押さえて倒れ込んだまま、動かなくなった。

 所見は心不全。

 嵐は過ぎ去った。あれほど暴れ狂った悪魔は、あっけなくこの世から消えたのだ。あの時、父と母が流した涙のうち、どれだけが悲しみのためであったのか……。





 そして、涼子の死にまつわる一切が急ぎ足で処理された。誰もがこれで涼子のに関する全ての行事を終わりにしたがっていたのだ。

 せいせいした、と大声で宣言できるほど奔放なタイプの人間は親族にいない。ここ数日、皆は俯き、神妙な顔をし、常識に従って黙々と行事を進行させていった。そこに本物の感情がどれだけ介在していただろう。しめやかな空気を作るために呼ばれたエキストラとどれほどの違いがあったろうか。義務と惰性だけが、生きている人間を動かしている。



 納棺の際、涼子の棺には携帯電話が入れられた。

 涼子が残した愛用の品といえば、誰もがそれを思い浮かべた。いや、それしか思い出すことができなかった。

 典型的な、そして重度の携帯メール依存症だった涼子は、朝起きてから夜眠るまで、食事中でも入浴中ですら、必ず携帯を手にしてメールをチェックし続けた。そしてメールが着信するやいなや、目を見張る速さで返事を入力し、送信する。

 一日にやりとりするメールは百件なのか二百件なのか、誰も知らないし知りたくもなかった。そしてメールを送るからには、それなりの数の友人知人がいたはずなのに、それらしい参列者の姿は皆無であった。



 棺の中では目を閉じた涼子が横たわっている。アイシャドウもマスカラもしておらず、死に装束の白に白百合が手向けられ、まるで別人のように見える。棺はもちろん白木とくれば、やたらと光り物でデコレートされたピンクの携帯は、棺の中で悪目立ちしていた。

 それが、たった数時間前の出来事だった。

 今は棺も釘打ちされ、炎で焼かれるのを待つばかりの状態である。





 数件のメールを職場に返信し終わった頃、先ほどの叔父が、待合室の隅に置かれていた将棋盤を見つけ、駒を並べ始めていた。その対面に黙って座る。会話のないまま、一局が始まった。定石どおり数手指してから、叔父はため息と共にぽつりと言った。

「お前も苦労させられたよな」

 手を焼いた末に両親が涼子を見限って以来、金や男に関することから警察沙汰に至るまで、確かに「苦労」させられていた。兄として妹の世話を買って出た訳ではない。他の誰にも頼むことができない以上、仕方がなかっただけのことである。実際、涼子から電話やメールが掛かってくるたびに、何度暗鬱な気分にさせられたことか。

 涼子の死を願ったことは? もちろん何度もあった。しかしそれもこれきりだ。他の常識的な身内と同じように、エキストラの一人として、もう少しだけ神妙に時を過ごさねばならない。



 叔父は自分の陣地をせっせと穴熊に囲っていく。十年前から変わらぬその戦法に思わず苦笑しそうになり、慌てて口元を引き締めた。

 今日の九時には最終の飛行機で東京に帰ることになっている。明日には日常が再開される。日が昇り日が沈む。涼子が死んで、たったの四日後に。哀れに思わないわけではないが、しかし愁傷という感覚は、どうしても浮かんでこなかった。



「準備が整いました。ご遺族の方はお集まりください」

 係員が呼びに来たので、全員で「告別ホール」なる場所に向かった。殺風景な空間だった。最後のお別れをと告げられたので、棺の小窓を開き、涼子の死に顔を見納めた。

 顔の横に置いた携帯が小窓から見える。装飾過多の安っぽいそれは、最後の最後まで場違いな輝きを放っていた。

 棺は、壁に空けられた魚雷発射管のような穴に押し入れられ、次に隔壁のような鉄扉が閉ざされ、最後に重々しくハンドルを回して固定された。壁の向こう側で猛烈な炎を扱うのであれば当然の厳重さだが、それはどこか「超えてはならない」壁を連想させる。壁の向こうは黄泉の国で、死者が二度と戻らないよう、このような厳重な壁を作っているのではないか。少なくとも、そういった思想を暗喩しているのではないか、と。



「火葬には七十分ほど掛かります。待合室でお待ちください」

 係員の声で我に返った。

 取り留めのない妄想をしている間に、火葬は始まってしまったらしい。



 待合室に戻る途中、喫煙所を見つけた。

 近くに売店もあったので、キャスターの1ミリとライターを購入する。セロファンをはがしてタバコを取り出し、火を点けた。数年ぶりの一服だった。用心して軽いタバコにしたつもりだったが、久々のニコチンに軽く目眩がする。

 喫煙所には他に誰の姿もなかった。

 吸煙機は故障しているのか全く動作する気配がない。施設全体に低い音量で流されているクラシック音楽も、ここまでは届いてこないようだ。壁にかけられていた時計の針の音が、静寂をより強調している。古い時計の示す時間は少し遅れているようだ。携帯電話を取り出して正確な時間を確認する。六時十五分。



 液晶ディスプレイを目にすると、つまらない都市伝説がひとつ思い出された。



 火葬している最中に、納棺した携帯に電話を掛けると、

あの世との間に回線が開かれる。



 好奇心というほどのものではない。駅のホームで時間を潰す時、何も考えず適当にネットをうろつく者がいるように、ただ思いついたまま、凉子の携帯電話を入力した。



 待つほどもなく「おかけになった電話は、電波の届かない場所にあるか、電源が入っていないため……」と応答された。

 あの厳つい扉の向こうには電波も届きはしないだろう。届いたところで一体何を話すというのか。苦笑して携帯電話をポケットにしまい、タバコを灰皿で揉み消そうとして立ち上がる。



 その時、喪服の胸ポケットに入れていた携帯電話が震えた。

 職場からの連絡だろうか。携帯電話を取り出し、液晶ディスプレイを確認する。発信者は、



涼子。



 涼子?

 電話番号を確認する。涼子の携帯番号に間違いなかった。混乱する頭で必死に考える。

 高熱で携帯電話が誤作動し、登録番号に電話を発信するなどということが有り得るだろうか。あり得ない。絶対にあり得ない。では誰が? どこから?



 涼子が、棺の中から。



 死因は心不全だったから、涼子の体は解剖も何もされてはいない。蘇生の可能性は皆無ではない。確かヨーロッパで、大昔の棺を掘り出したら、死人が中で蘇生したのか、棺を内側から掻きむしっていたものがあったと聞いたことがある。

 死後から今日でたったの3日。

だとすると。もしや。



「おい、どうした」

 立ちつくしていると、叔父が呼びに戻って来た。とっさに携帯電話を喪服の胸ポケットに戻す。振動が胸板に伝わる。心臓が痛いほど激しく脈打つ。叔父は将棋の続きを誘いに来たのだ。なんでもない、と答えて叔父の背中について歩く。

 待合室に向かう途中で、売店の売り子に何やら注意された。だが何を言っているのかうまく理解することができない。火の点いたタバコを持ったまま移動していたからだということに気づいたのは、待合室の手前でのことだった。リノリウムの床にそれを捨て、靴で

踏み消す。売り子が眉を顰めたが、叔父は気付いていないようだった。胸の電話は鳴り続けている。涼子はまだ……。



「さて、俺の番からだよな」

 どっこいせ、と大仰に座布団に座り直し、叔父は盤面を見つめている。こちらを注視してはいない。鏡を見る余裕はなかったが、今の顔がまともであるとは思えなかった。携帯は震え続ける。その音が漏れて聞こえないよう、掌で胸元を押さえつける。振動が骨に響いた。

 電源を切るか。しかしそれは、とてつもない恐怖を連想させた。涼子にこちらの思惑を伝えることになるのではないか。死の傍観者ではなくなるのではないか。「気が付かなかったのだ」という免罪符を手放すことになるのではないか。

 かわいそうな涼子。なんて不幸な事故なんだ。だけど仕方がなかったんだよ。電話が鳴っていることに気が付かなかったんだから……。



「そういえば、涼子の携帯な」

 不意に叔父が呟いた。手持ちの香車が指に食い込む。

「本来は棺に入れちゃいかんそうだ。プラスチックや電子機器の類はダイオキシンがどうとかで駄目なんだと。まぁこんな時だ。大目に見てくれたけどよ」

 止まっていた息をわずかに吐き出す。



 そして、携帯の振動が止まった。



 生唾を飲み込む。

 今、何が起きた。

涼子は今どうなった。



 告別ホールから離れて、まだ3分と経ってはいない。

 指先が一瞬震える。膝を掴んでそれを強引に押さえつける。

 今からでも係員に告げるか?

 できない。できるわけがない。機会があったとしても、ほんの三分前にそれは永久に失われてしまった。今ではもう、このまま時間が過ぎるのを待つしかない。

 意志を確かめるように、香車を盤面に打ち付ける。必要以上に甲高い音がした。

「……悪くない手だな」

 心中を察したかのような叔父の言葉だが、その態度に変わったところはない。あぐらをかいた姿勢で盤面を覗き込んでいるので薄くなった頭部しか見えないが、意識は完全に将棋に集中しているようだ。



 再び携帯が震えた。



「おい、電話鳴ってるぞ」

 気づかれた。短い間隔で震えるパターン。メールの着信だ。

「出なくていいのか?」

 叔父が顔を上げる。慌てて顔を盤上に伏せる。たぶん職場からだ。メールだから暫く放っておいても構わない、と言い訳する。声は震えていない。顔も強ばっていないはずだ。

「ふーん」

 叔父はすぐに興味を失い、再び頭部をこちらに向けて黙考に入った。今のメールは誰からだ。職場からなのか。それとも、涼子からなのか。

 口の中が乾いて頭が痛んだ。目の奥から圧迫されるような力を感じる。メールの内容を確認しなければならない。本当に職場か、それとも知人からのメールかも知れない。だがしかし、それを取り出す勇気はない。

 既に火葬は始まっている。もし、もし仮に今すぐこのことを伝えて火を止めてもらえばどうなるのか。全身に火傷? いや、とてもその程度で済む話ではない。そうなれば今からここは修羅場だ。涼子が生きていようが死んでいようが、たった今からこの場は地獄絵図のようになる。

 しかし、葬祭場は相変わらず静まり返っている。不自然なほど静寂に包まれている。事故や不都合が起きた気配は感じられない。



 掛け時計を見た。六時二十二分。あれから七分。あと一時間。



 この前、葬儀で納骨まで参加したのは祖父の葬儀でだった。

 大柄な祖父も、焼かれた後は灰と骨とに変わり果てていた。竹と木の箸でそれをつまんで骨壺に入れたことを思い出す。ツンとした匂いと骨から伝わる熱気。戦争中に授与された勲章も棺に入れておいたが、その跡形もなかったことを、叔父や叔母が法事のたびに話

題にしていた。ひとひとりを一時間で灰に変える火力とはそこまでのものなのだ。



 六時二十三分。



 日は落ち、ガラス戸が鏡となって内部を映していた。鏡の中には男が映っていた。妹が生きたまま焼かれていく中、叔父と将棋を指している男が。その男が何者かに似ているのに気づきかけ、慌てて盤上に視線を戻す。勝負の行方がどうなっているかなど全く理解で

きていない。ただ、取れそうな駒を取り、置けそうな場所に置き続ける。戦法を考えるふりをして、とにかく時間が過ぎるのを待った。

 いつ騒ぎが巻き起こるのか、いつまた携帯に着信があるのか。

 一分一秒を、これほど重苦しく長く感じたことがあっただろうか。



 現在、六時三十五分。



  ※       ※       ※



「鈴木家の皆様、鈴木家の皆様」

 叔父との勝負がついた頃、館内放送でアナウンスが始まった。

 間もなく火葬が終わるので、納骨のために告別ホールへおいで下さい、とのことである。

叔父は将棋の駒を片づけながら、ネクタイの結び目を気にしていた。両親の様子も葬儀の時と変わらない。携帯電話も鳴らない。



 罪悪感。

 自己嫌悪。

 放心。

そして安堵。



 様々な感情が無秩序に拡大し、交差する。

 それらに無理矢理区切りをつけて意を決し、足元に力を入れて立ち上がった。その勢いを借りて携帯をチェックしようとすると、

「……なるほど、兄妹だな」

 叔父が腕組みしつつ、しみじみと呟いた。

「携帯をいじってる姿が涼子に良く似てるよ」

 凍り付いた様子を気にするでもなく、叔父はさらに続ける。

「顔つきだって仕草にしたって……。男の子と女の子だけど、小さい頃は見分けがつかない時もあったからな」



 携帯の画面に視線を戻した。液晶がうっすらと鏡の役目を果たしている。さきほど、夕暮れのガラス窓に映った姿が何に似ていたのかが解った。



 棺の中の涼子に、そっくりな男が、そこにいた。



 生きて派手な化粧を施している時は、意識すらしたことがなかった。面影を重ねられたのは、棺の中で横たわる素顔を目にしたからだろう。仕草と言われても、何がどのようにそうなのか全く解らない。髪をかき上げる様子がそうなのか。携帯を扱う時に目を細めるクセがそう見させるのか。これからずっと、鏡を見るたびに、涼子の亡霊と向き合わなければならないのか。携帯から着信を受けるたびに、今日のことを思い出さねばならないのか。



「ご案内します。こちらへ」

 係員が先導するままに通路を歩む。

 棺の中の携帯電話はどうなったのだろう。

 基盤や液晶が燃え残っていたりすることはないのだろうか。

 安全装置のようなものが働いて、消却機の作動が停止することはないのだろうか。



 係員が部屋の扉に手をかける。



 そのとき、携帯電話が鳴った。



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