| 
 [作品タイトル] ブラック・コール
  [応募者名] 谷垣吉彦  
 OBの石原さんが死んだのは、あの電話のせいらしい。
   箱崎山をドライブ中、大菅先輩から電話がかかってきたのだ。国道へ抜けるトンネルは危ない、と大菅先輩が言ったから、石原さんは山越えのルートを選んだ。
   カーブの終わり、落石で道がふさがっていた。
   
   桜花女子高の稲見晴美が死んだのも、電話のせいだと聞いた。彼女の場合は、妹からの電話だった。部屋の戸袋に、彼氏からのプレゼントを隠してある。ちょっとヤバイものだから、お母さんに見つからないよう、処分してほしい。そういわれて、彼女は戸袋の中を探った。中に手紙はなく、アシナガバチの巣があった。
   彼女はハチアレルギーだった。
    
   ずいぶん以前から、その噂のことは知っていた気がする。
   ただ「死者からの電話」なんてオカルトについて、誰かと話し合う余裕がなかっただけだ。
   その夏、篠原和人は高校二年生だった。家族とだって、もうあまり話はしない。もっともたくさん会話を交わす相手は、エースの工藤たもつだろう。だがそのたもつが口にすることと言えば、今日のスライダーはどうだった、なんて話ばかり。バッテリーの会話としては、当然なんだろうけれど。
   県大会二回戦の前日、そのたもつが死んだ。
    交通事故だった。
   エースと士気を失って、チームは翌日、あっさりと敗れた。
   そうして、二年生の夏が終わった。
   次に噂のことを思い出したのは、三年生の夏だった。
   死者との電話に名前があることも、初めて知った。
  「ホワイト・コール、って言うんだよ」教えてくれたのは、マネージャーの彩香だった。「命日に、444って打ってから、死んだ人の携帯に、電話してみるの」
  「一四桁になっちゃうじゃないか。かからないだろ、そんなの」
  「思いが強ければ、かかるんだって」
  「思い?」
  「うん。かけてきた人と話したい、って強い思いが、死んだ人にあれば、電話をとってくれるらしいよ」
  「なんだかロマンチック系?」
  「それだけならね」
  「それだけじゃないの?」
   彩香は少しためらって、首を横に振った。
   何かを隠してるようにも見えたが、和人はそれ以上訊かなかった。
   彼女と話す話題としては、あまり楽しいものではなかったから。
    三年生になった和人は、野球部のキャプテンを任されていた。
   正捕手でキャプテン。おまけにクリーンナップの五番打者。クラブの練習は忙しく、彩香と話す機会はなかなかとれなかった。
   学校からの帰り道は、一緒に過ごせる貴重な時間だった。
   話したいことは、「死者からの電話」以外に、たくさんあった。
   ゆるくウェーブのかかった彼女の髪が風に揺れるのを見ていると、胸の中で何かが一緒に揺れることとか。
   彼女の誕生日がもうすぐやってくるけど、どんな風に過ごしたいか、とか。
   県大会が始まるから忙しくなるけど、その日はどうにか時間を作るつもりだった。
   おしゃれなお店に行ってみたい、というのが、彼女の希望だったから、県道沿いの「ブラッセリー・ココ」を候補に考えていた。
   OBの坂下さんによると、ちゃんとしたジャケットを着ていけば、高校生のカップルでも大丈夫らしい。
  「そういえば、もうすぐね」自転車を押しながら、彩香がポツリと言った。
  「あ、うん」
  「どうするつもり?」
  「彩香が行きたいって、言ってた場所がいいかな、って思ってるんだけど」
  「え?」小さく首をかしげてから、彼女は困ったように微笑んだ。「もしかして、違うこと考えてる?」
  「誕生日……じゃないの?」
  「たもつの命日」
   和人はアスファルトに目を落とした。
   すっかり忘れていた。
   十日後、また県大会の二回戦がある。どういう偶然か、その前日が、たもつの命日だった。
  「あ、だから、あいつの墓参り、一緒に行こうよ」
   彩香は答えず、和人と同じように、前方の路面に目を落とした。
  「何? お墓参り、嫌なの?」
  「そうじゃないけど」
  「けど?」
   彩香が見上げた空は、壊れかけのオーブントースターみたいな暗い朱色だった。
   芸能事務所が勧誘にきた、という噂があるほど、彼女は華やかな美人だった。
   その綺麗に整った横顔が、空の色を受けて、緋色に輝いていた。
   彼女には、病気で寝たきりの弟がいる。
   母親も病弱だとかで、看病は主に彩香が受け持っているらしい。
   ときおり、寂しげな表情がよぎることはあるが、そんな生活を送っていても、普段の彼女は明るい。
  「ううん。いいの。それより、忘れてほしいことがあるの」
  「忘れる、って何を?」
  「さっきの話」
  「ホワイトコール?」
  「そう」
  「何だよ。彩香が言い出さなきゃ、忘れてたよ」
   監督に申し出ると、命日の墓参りは、あっさりと許可が出た。
   部室の壁には今も、たもつの写真に添えて、色紙が飾ってある。『たもつと一緒に甲子園へ!』真ん中にそう書いたのは、監督だった。部員一人一人の寄せ書きが、その言葉を囲んでいる。
  『左手の痛みは忘れない』和人はそう書いた。あの、手のひらがジンジンと痺れるたもつのストレートがあれば、県大会優勝だって、夢じゃなかったはずだ。
   八月の猛烈な日射しにさらされて、墓地の芝生は枯れかけていた。
   しばらく雨が降っていなかった。
  「たもつには地味だったかな」駅前で買った小さな菊を花受けに生けながら、彩香が言った。
    バケツの水の中で茎を切りそろえると、また生け直す。その手つきは丁寧で、優しかった。
  「かもな。たもなら、でかいヒマワリが似合ったよな」
   エースで四番。チーム内で、たもつは王様だった。
   気に入らなければ、サインが決まる前に、いきなりフォークを投げた。
   和人は何度もとりそこねて、手首や指を痛めた。寄せ書きに書いた言葉には、そんな意味も秘かにこめてあったが、不思議と彼に腹を立てたことはなかった。
   誰も憎めない、明るい王様。だけど横暴。人を傷つけることに鈍感。それがたもつだった。
   彩香との付き合いでも、それは同じだったらしい。
  「うまくいってない」という相談を聞いているうちに、和人は彼女に惹かれていった。いや、その前からずっと胸の底に秘めていた想いを隠せなくなった、というのが正しい。
   一度生けた花を取り出すと、彩香がまた、茎を少し切った。
   坊主頭にしている和人の脳天は、直射日光を浴びて、ジリジリと焦げつくようだった。
   汗が、顎の下からしたたり落ちた。
    夏休み中、部活が休めるのは、たぶん今日しかない。たもつには悪いが、こんなところで過ごすはずじゃなかった。
   ネットで買ったジャケットは、けっこう高かったのに。
  「なんであんなとこ、走ってたんだろうな」
    コンビニで買ったポテチとコーラを墓石の前に並べながら、和人は言った。
   たもつがひかれた国道は、彼の家とは反対方向にあった。
   彩香と和人の家の方角だ。
  「彩香に会いにいく途中だったのかな?」
   花を生ける彩香の手が止まった。
  「あいつほら、まだ彩香のこと、好きだったみたいだから」
  「彼が好きだったのは、自分だけよ」
   だけどみんな、そんなたもつのことが大好きなんだ。
   胸の内で、和人は言葉を返した。
    もし口にしていたら、一瞬で自分を嫌いになれるほど、惨めったらしい言葉だった。
   小さく息を吐いて、ポテチを墓石に立てかけた。
  「たもつが死んだ時、悲しかった?」
  「わからない」
  「優奈と浮気したこと、あいつ、本当に反省してたんだぜ」
  「知ってる」
  「だったら、なんで別れたんだ?」
   彩香は何も言わなかった。
   左手に菊の花を持ったまま、じっと和人を見つめていた。
   蝉時雨が彼女の小さな肩に降り注いだ。
  「本当は後悔してたんじゃない? たもつもそのこと知ってた。だから、彩香と逢うために、あんな道を走ってたんだぜ、きっと」
    バカみたいなニヤニヤ笑いを口元に貼り付けて、和人は言った。
  「なんで、そんなこと言うの」
    なんでなのか、和人には自分でもわからなかった。
   ほんの冗談のつもりで言い出してみたら、意外に痛いところをついていた。彩香が笑ってくれたら、やめられたのに、これじゃあやめられない、ってところ?
   嫉妬深くて、野球でも、彩香の心をつかむことでもたもつにはかなわない、根暗なキャッチャーだから。
   彼女に背を向け、和人はポケットから携帯電話をとりだした。
   444を打ってから、たもつの番号を打ち込んだ。
  「何してるの?」
  「ホワイトコール。彩香がいるなら、たもつも出てくれるかもしれないだろ」
   彼女の顔色が変わった。
   思いがけない素早さで、和人の携帯に手を伸ばしてきた。「やめて!」
   ほんの意地悪のつもりだった。
   そんな奇妙な番号を押したって、どうせ誰も出るはずはない。
   たもつは死んだのだから。
   生きている自分は、彼よりずっと彩香を愛してる。そう告げるつもりだった。
   だが彩香の思わぬ形相に、心がねじくれた。
   いまだに、たもつが電話に出る、なんて思ってるのか? やっぱりそれほど好きだった、ってこと?
  「電話を切って! お願いだから切って!」彼女が叫んだ。
   奪い取られないよう、携帯を高く頭のうえに上げて、和人はさらに大げさな笑みを作った。「いいじゃないか。たもに聞こうよ。なんであんなとこ走ってたのか」
  「だから、ダメなの! ブラックコールがきちゃう!」
  「なんだよ、それ……」
  「おー、カズ、久しぶり!」
   いきなり、頭上から声が降ってきた。
   彩香が凍りつき、和人も言葉を失った。
   ありえない。
   まじ、ありえない。
   たもつの声だった。
   何かのトリックなのか、これ?
  「トリック? 相変わらず、おりこうさんだなぁ、カズ」携帯が言った。
   いや、たもつが……。
  「たも。おまえ、死んでるんだろう」
  「おうよ。だから、こんな電話でしかしゃべれない、っつうわけ」
  「電話でもしゃべれないんだよ、普通は」
  「そうでもないんだな、これが。俺っちはカズと話したい、ってずっと思ってたし、そいでもって、この番号にかけてくれたからな」
   ホワイトコールは本物だ、ってこと?
   こんな、バカみたいに単純な方法で、死んだ人間と話せる?
   ただ、携帯番号の前に444を打つだけで?
   背筋にゾワゾワと走った奇妙な衝撃が、恐怖なのか怒りなのか、自分でもよくわからなかった。
   彩香は、今にも倒れそうな顔をしている。
  「おとなしく死んでろ!」
  「いうねぇ、カズ。だけど、電話してきたのは、おまえの方なんだぜ。聞きたいことがあったんじゃねぇの?」
  「ないよ」
  「そっか。でもいちおう教えといてやる。あの日、俺が国道に向かったのは、おまえと彩香をつかまえるためだ」
   身体中の骨が溶けたみたいに、彩香がフニャッと崩れ落ちた。
  「ふざけんな! さんざん勝手しといて、ふられたらストーカーかよ」
  「そうじゃねぇんだ」
  「じゃあ、何だ?」
   いきなり、電話が切れた。
   携帯電話が水浸しになったからだ。
   いつの間にか立ち上がった彩香が、バケツの水を和人めがけてぶちまけたのだ。
  「だから、ダメだって言ったのに」
  「何なんだ、今のは?」
  「たぶんホワイトコール」
  「でもさっきたしか、ブラックコールがどうこう、って……」
  「最初にこっちからかけるのが、ホワイトコール。だけど、死んだ人にものすごく強い思いがあったら、その後は、あっちからかかってくるの。それがブラックコール」
   たもつとの付き合いに嫌気がさした彩香が、彼をふった、というのが、彼らの別れ方だった。
   たもつが何か言いたいとしたら、相手は彩香なのか、それとも別れるようにアドバイスした和人なのか……。
   だいたい、たもつは彩香と和人の関係をどのくらい知っていたのだろう。
  「ブラックコールがかかり始めると、その人はいずれ、電話に殺されちゃうの」ポツリと彩香が言った。「晴美の弟がそう言ってた。ネットにも、書き込みがたくさんあるわ」
  「電話でどうやって殺すんだよ?」
  「わからないけど、いろんな嘘をいっぱいしゃべってきて、そのうち騙されちゃうみたい」
  「大丈夫だよ。大丈夫。俺が守るから」
   だがどうやって?
    こんな怪奇現象とどう戦えばいいのか、さっぱりわからない。
  「そうだ、携帯を捨てよう。電話を持ってなきゃ、かけてこられないだろ」
  「それなら捨てなくても、電源を切っておけばいいんじゃない?」
   だがその夜、電源をオフにしてあった和人の携帯が鳴った。
   着メロはGREENの「キセキ」。たもつからの着信だ。
    昼間、水でダメになった携帯は捨てた。ユーシムカードを抜き取り、以前使っていた機種に挿入しておいたのは、部活の連絡などで、どうしても使う必要があったからだ。
   電話を使った後は、電源をオフにした。
   それでも、かかってきた。
   背筋が凍りつき、胃がキュッと小さく縮こまった。
   あざ笑うように歌っている携帯をとりあげ、少し迷った。
    騙される、というのなら、話さなければいい。徹底して無視し続ければいいんじゃないの?
   だが結局、通話ボタンを押した。
  「はい?」
  「おお、カズ。昼間はあんまり話せなかったからさ」
   たもつの声は、生前とまったく同じだった。元気で明るく、どこか陰謀をたくらんでいるような、ワクワク感を漂わせている。
  「何が、話したいんだ」
  「彩香について」
   彩香について、嘘話を並べたい、ということか?
  「おまえさ、生きてる時は、そんなうざいやつじゃなかったじゃん」
  「彩香が、なんでおまえと付き合ってるか、知ってるか?」
  「おまえが浮気しまくりだったから、その復讐だろ」
  「まあ、最初はそういうこともあったんだろうな」
  「でも今は、ちゃんと好きなんだよ、お互い」
  「カズ、東郷学園のスクイズを二回も見破ったおまえが、女のことになると、からっきしだな。あいつは誰かを好きになったりしない女だぜ」
  「ざけんな。じゃあ、今でもおまえのことが好きだってのか?」
  「だから、言ってるだろ。あいつは誰のことも好きにならない。俺と付き合ってたのも、野球部のエースと付き合えば、はくが付く、って思ってたからさ。
   で、今はおまえ。野球部のキャプテンだからな」
   和人は奥歯を噛みしめた。
   ブラックコールは嘘をつく。ブラックコールは嘘をつきなんだ。
  「俺が何で、あの道を走ってたか、知りたかったんだよな」たもつの声が、少し低く湿った。
  「彩香に会って、おまえと別れるよう、話すつもりだったんだ。俺のために、カズを利用す……」
   携帯電話をへし折ると、和人は窓から放り投げた。
   電話機の残骸はクルクル回りながら宙を飛び、向かいの電柱に当たって、どこかに消えた。
   翌日、野球部の練習にやってきた彩香を見て、和人は少し安心した。
   顔色は少し青白いが、夜の間に、特に変わったことはなかった、と言った。
   和人も、たもつからの電話のことは話さなかった。話せば、たもつが何を言ったのか、訊かれるだろう。彼女と自分を傷つけずに話すことは難しかった。
   それでも彩香は何か感じていたのだろう。携帯は家に置いてきた、と言った。
   来週はいよいよ大会、ということで、野球部の練習は、やたらと熱心だった。終わるころには、グラウンドは闇に覆われ、ボールが完全に見えなくなっていた。
   彩香と一緒に歩く帰りは、完全な夜道だった。
  「いくら非常識なたもつでも、電話がなきゃ、かけてくることはできないだろ」和人はニヤッと笑って見せた。
  「昨日、あれから本当に何もなかったの?」
  「ないよ。電源を切ってたんだから」
    違う道を歩きたかったが、結局、たもつがひかれた川沿いの国道を歩くことになった。
   それ以外だと、ひどく遠回りになってしまうのだ。
   上流の採石場から砂利を運び出すダンプが、夜でもひっきりなしに通る。
   人通りも少しはあるので、あまり心細さは感じない。
  「あの、和人くん?」
    前方からやってきた男の子に声をかけられたのは、彩香の家までもう少しのところだった。
   塾帰りの中学生だろうか。小柄で細身の身体に似合わない大きめのショルダーバッグを肩から斜めにさげている。
   まったく知らない子だった。
  「なに?」
   男の子はゆっくりと携帯電話を差し出してきた。「あなたに、だって」
  「え? 何だよ?」
  「ぼくにもよくわからないんだけど。ついさっき携帯が鳴って、出てみたら、男の人が、『前から歩いてくるカップルに緊急の話があるから』って言うから」
    和人の背中に、ジワッと冷たい汗がわいた。
   携帯を受け取ると、耳に押し当てた。
  「もしもし」
  「よぉ、カズ」予想通りの声が言った。
   携帯電話なんて、日本中にあふれている。どこかに引きこもって暮らさない限り、逃げ場はないらしい。
   和人が視線を向けると、彩香がわずかに後ずさった。
  「何なんだ、おまえは?」
  「冷たいなぁ、俺たち、バッテリーだろ、バッテリー」
  「違うな。今の俺は、近藤とバッテリーなんだ」
  「ああ、あのヘボピーか」一瞬、たもつの声から、傲慢な明るさが消えた……ように思えた。
  「だから、もうかけてくるな」
  「冷たいなぁ、カズ。でもいいぜ。ちゃんと話を聞いてくれたら、もうかけねぇ」
  「何だ?」
  「俺がなぜ、国道でダンプに轢かれたか、知ってるか?」
   そういえば、そいつはたしかに謎だった。
   運転手は、たもつが国道に飛び出してきた、と言っていたらしい。
   車のブレーキ痕とか、遺体の飛ばされ方とか、そういった状況は、運転手の話した通りだったそうだ。
  「運動神経は、かなりいい方だったんだぜ」少しおどけた声で、たもつが言った。「自殺願望もなかったしな」
  「だったら、何だ?」
  「突き飛ばされたんだよ」
  「誰に?」
  「彩香」
   クソッ、これがブラックコール、ってやつか。
   あることないこと吹き込んで、相手を混乱させ、しまいには言うことを聞かせよう、ってわけ?
  「彩香が何だって、おまえを殺さなきゃいけない?」
   声をひそめたつもりだったが、「殺す」という言葉に、携帯の持ち主と、彩香が反応した。
   二人とも、目を大きく見開き、満月みたいに青白くなった。
  「あの、ぼくもう、帰らなきゃ」ソワソワと男の子が言った。
  「ゴメン。それじゃあ、携帯を貸してくれるか。明日また、同じ時間に、ここに持ってくるから」
   不満げにだが、男の子はうなずいた。物騒な話を聞かされて、怖くなったのだろう。
   男の子の背中を見送って、和人は携帯を耳に当て直した。
  「彩香が俺を殺したのは、俺が、あることをバラす、と脅したからだ」たもつが言った。
  「バラすって、何だよ、それ?」
  「そいつを知ったら、彩香はおまえも殺そうとするかもしれないぜ」
   和人は鼻を鳴らし、クスクスと笑ってやった。「バーカ、やっぱ死んでもあんまり、頭はよくならないんだな」
  「かもな。だから、本当のことを言うしかできねぇ」
  「言いたいことはそれだけか?」
  「いや……。言いたいことは、そっちじゃねぇ。秘密を知らなくても、彩香はおまえを殺すかも、って言いたかったんだ」
  「生命保険でもかけられてるのか、俺?」
   たもつが電話の向こうで、ため息をついた。まるで、生きていて、本当に息をしてるみたいに。
  「俺が死んで、彩香は悲劇のヒロインになったよな。学校中が、彼女に注目した。あれが忘れられないんだ。そういう女なんだよ」
   バカバカしい。
   和人は彩香の方を見やった。
   たしかに、たもつが急死して、彼女は校内で一時、テレビドラマのヒロインみたいに扱われていた。
   女子たちが浴びせる視線には、同情と一緒に、奇妙な崇拝が混じっていたことを和人も知っている。
   だがその崇拝は、裏切れば、一気に人でなし扱いされるようなものだ。だからその後の半年、彩香と和人は、人目のあるところでは厳密に、野球部のキャプテンとマネージャーとして過ごした。「さん」付けで呼び合う仲を演じたほどだ。
   あんな緊張状態を喜ぶ人間なんて、いるわけない。
  「何だって、たもつ?」彼女が言った。
   送話口を押さえて、和人は答えた。「何でもない。アホなことを言ってるだけだよ」
  「知ってるか、彩香に病気の弟なんていないんだぜ」ふいに、たもつが声を張り上げた。
   ダンプが通り過ぎたからだ。
   だがタイミングが少し遅かった。声は、ダンプが通り過ぎた後にも大きく響いて、彩香まで届いた。
   もともと大きな彼女の目が、さらに大きく円く見開かれ、冷たい円盤のようになった。
  「なにバカ言ってるんだよ」
  「じゃあ、訊いてみろ。弟が入院してる病院がどこなのか。で、見に行け。本当にそんな患者がいるかどうか」
   彩香がヨロヨロとしゃがみ込んだ。
  「ほら。彩香がまた仮病使ってるぜ」たもつの声が囁いた。「顔をのぞき込んでみろ、カズ。絶対普通の顔してるから」
   昨夜と同じように、携帯を二つにちぎって投げ捨てたかった。
   だが他人の携帯だ。
  「じゃあ、一つ約束してやるよ、カズ。今すぐ、彩香の顔をのぞき込め。それで彼女が泣いてたら、俺の方から電話を切る。もう二度とかけない」
  「本当だな」
   和人はそっと彩香のそばに歩み寄った。
   低めのフォークボールを止める時みたいに、ひざを折ってかがみ込み、うつむいている彩香の顔を下からのぞき込んだ。
   彼女は泣いていなかった。
    そこにあった表情は、見たことのないものだった。
   いらだたしげに奥歯をきつく噛みしめ、眉間には険しいシワが刻まれている。
   無垢な可愛らしさはかけらもなく、ひどく歳をとって見えた。
   和人の気配に、彼女はハッと我に返ったようだった。
   険しいシワが嘘のように消え、愛らしく悲しそうな表情が、その顔を覆った。
  「あんな嘘なんて、信じないよね、カズ」
  「もちろん……」
   信じたくはなかった。
  「進也は今、病院にいないの。先週、少し具合がよくなったから、一時退院してるの。でも、家からは出られないし、感染症の危険性があるから、家族以外の人と会うのもダメなのよ」
  「退院したなんて、聞いてないけど……」
  「家族の病気のことなんて、やっぱり話したくないもの」
   もちろんそうだろう。
   たもつは知っていて、わざとあんなことを言ったに違いない。
   和人が彩香を疑うように。
   いかにも嘘っぽい言葉が返ってくることを知っていたのだ。
   そうに決まっている。
  「わかってんだろ、カズ」耳元で携帯電話が言った。「どうせおまえは、これからずっと疑ってすごさなきゃならないんだ。病気の弟が本当にいるのかどうか。彩香の家に電話して、親に訊いてみろ」
  「何なんだ、おまえ! 俺と彩香を喧嘩させて、どうするつもりだ!」大きくなりかけた声を和人はなんとか抑えた「だいたい、ブラックコールってのは、人を殺すものらしいじゃないか」
  「ああ、そういう場合もある。電話する相手のことを憎んでたらな」
  「えっ?」
   たもつの答えに、頬をパチンとはたかれたような衝撃を受けた。
   あいつが俺のことを憎んでいる?
    それは考えられなかった。
   和人をというだけじゃない。たもつが誰かのことを憎む、ということが、想像できないのだ。
   別れた彼女と付き合っているとしても。
   そう、たとえたもつが命の次に大切にしていたイチローのサインボールをトイレに流したとしても、あいつは俺を憎んだりしない。
   怒って、ぶん殴るだろう。だが、気がすむまで拳を振り回せば、それでおしまい。誰かを憎み続けるような湿気は、不思議に思えるほど、たもつにはなかった。
   あいつのことは、よく知っている。
   だが彩香のことはどうだ? どれほどわかってる?
   もし本当に、病気の弟なんていないんだとしたら?
   たもつは平気で学校で話すだろう。単なる笑い話として。人を傷つけることに鈍感な彼にとって、どんな話も、基本的には笑い話なのだ。
   それを防ぐために、彩香は何をする?
  「カズは私を信じてるよね?」
   歩み寄ってくる彼女の眼差しは暗くて、その底に、何がひそんでいるのか、見えなかった。
   国道をまたダンプがやってきた。
  
		   |