「ユキちゃん、起きてるかな?」

 返事を待たずにドアを開けると、広い個室の奥で車椅子に座った少女がこちらに顔を向けた。僕よりも幾らか年下の少女は、菊池の姿を認めると嬉しそうに微笑む。

「今日はもう一人お客さんがいるんだ」

 菊池が僕の肩を押し出すと、少女は僕に目を向ける。その瞳はとても純粋そうで、しかしどこか寂しげにも見え、僕は戸惑ってしまった。

 散歩に行こうとユキちゃんを病室から連れ出すと、僕たちは病院の裏庭にやってきた。花壇にはたくさんの花が咲いており、中でもお日様に向かって力強く咲く向日葵が見事だった。ユキちゃんも向日葵がお気に入りらしく、菊池の手を離れて自分で車椅子を動かし、しばらく向日葵に見とれていた。

「あの子、いくつに見える?」

 ユキちゃんの後ろ姿を眺めながら問う菊池に、僕は少し考えるようにして答える。

「さぁ。十二歳ってところじゃないか」

 菊池は「うん、そうだね」と曖昧な返事をしてユキちゃんの方へ歩みだした。

「この子はね、『かわいそうな子』なんだ」

 菊池は車椅子を押してこちらに顔を向けると、そう切り出した。本人を前に何を言い出すのかと訝しげに菊池を見ると、「ユキちゃんは耳が聞こえないから」と付け足す。

「精神(こころ)にも障害を持ってる」更にそう付け足した菊池は、車椅子を押して歩き出した。

「四年前に交通事故にあってね。心身ともに傷を負った幼い彼女は、自閉という道を選ばざるをえなかったんだろう。ユキちゃんには笑う以外の感情が欠けてしまった」

 ゆっくりと語る菊池は、病院の敷地を出てなお歩み進める。

「彼女、本当は僕たちと同じ十五歳なんだ。事故以来ほとんど体の成長は止まってしまったけど」

 僕はユキちゃんを見下ろした。白い肌に細い腕、細い首、小さな肩。ちょっとした衝撃でも折れてしまいそうなほど華奢な少女は、到底同い年には見えない。

 菊池は「ねぇ」と声のトーンを上げて続けた。

「みんなが笑って暮らせるのが幸せだって言う人がいるけど、それならユキちゃんみたいに悲しむことも怒ることもせず、ただ笑って暮らすことも、幸せなのかな?」

 ここではないどこかを眺めるような菊池の表情に、僕はただ呆然としていた。照りつける日差しがじりじりと皮膚を侵食して行く。僕も熱に浮かされたように侵食されて行く。

「僕は、そうは思わない」

 菊池は歩道橋のスロープをゆっくり上りながら、囁くように続ける。

「ユキちゃんもずっとこのままではいられない。それは彼女自身、いつか気付くだろう。その時のことを考えると僕は胸が痛む。そして思う。いっそ幸せなうちに命を散らしてあげた方がいいんじゃないかって」

 歩道橋を上りきったところで菊池は僕を振り返った。

 黙りこむ僕を見て楽しそうに笑う。

「と、まぁ動機はこんなところかな。一晩で考えたにしてはなかなかだと思わない?」

「動機?」

 話が見えずに聞き返すと、菊池は「そう」と頷く。

「昨日君が言ったんじゃないか。ありふれた動機ばかりでつまらないって」

 言った。確かに僕はそう言ったが、

「それは小説の話だ」

「そうだね。でも、小説の中の犯行動機じゃ満足出来ないから、読むのをやめたんだろう?」

 菊池の意図が分からず、僕は黙ったままあいつを見つめた。

「事実は小説より奇なり、って言うじゃない」

 そう静かに言いながら菊池は僕の腕をつかみ、車椅子に手をかけさせる。

「お前、何を考えてるんだ?」

 語調を強めて問うと、菊池はしばらく黙した後、突然声を上げて笑い出した。

「やっぱり駄目だね、無理に繕ってみても上手く行きっこない」

「菊池?」

「動機なんて必要ない。殺したいと思ったから、殺すんだ。それが一番単純で分かりやすい」

 菊池はかつてないほどの低い声で呟き、薄ら笑いを浮かべる。

「動機なんて、周りの人間が勝手に作り上げるものだ。型にはまっていないと安心できない、脆弱なやつらのすることなんだ」

 目を見開く僕を見て、菊池は更に楽しそうに続けた。

「ねぇ、君もそう思っているんだろう? 僕たちは似ているみたいだから、君もきっとそう考えたんだろう?」

 菊池の言う通り、確かに僕もそう考えた。それでも、僕はこの現状を肯定するわけにはいかなかった。似ているというなら、菊池を止められるのも自分だけだと思ったからだ。

「だとしても、殺していいとは思わない」

 腕を思い切り振りほどくと、指先が菊池の眼鏡にぶつかり、足元に落ちた。

「怖いのか?」

「お前は怖くないのか」

「僕は、既に一人殺しているから」

 菊池は笑みを消し、ひび割れた眼鏡を見下ろす。

「もう五年も前の話だよ。植物状態だった患者の呼吸器をわざと外したんだ。遺族は悲しみながらも、どこかほっとした顔をしていた。ユキちゃんも同じさ。あの子が死んでも、両親は心から悲しまない。親から見放された子なんだ――君みたいに」

 僕は返す言葉が見つからず、菊池から目を逸らした。背中を一滴の汗が伝う。その雫がやけに冷たくて、僕は小さく身震いした。

 菊池は再び楽しげに笑って僕の腕をつかむ。振り払おうとしたその時、ユキちゃんの艶やかな黒髪が大きくなびいた。

 それはほんの一瞬の出来事だった。だが僕の中では、まるでスローモーションのように世界はゆっくりと動いていた。

 耳障りな蝉の声。排気ガスのにおい。青い空。そして宙を舞う少女。とっさに踏み出した一歩が硬い物を踏みつぶす。それは僕とあいつに芽生えかけた友情だったのかもしれない。

 刹那の風が凪いだ時、ユキちゃんは歩道橋の階段の下で、車椅子の下敷きになってうずくまっていた。

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