「マスター、もう一杯だ!」
隣に座る雄々しい獣面の大男――
ヴァリアルが空のグラスをカウンターに叩きつけた。
瘴気と酒の匂いが入り混じった吐息を深く漏らす。
「お客さん、ちょっと飲みすぎなんじゃないかい?」
「大丈夫よ。この程度で潰れるほど柔なヒトじゃないから。それに、このヒトの顔が赤いのは元からなの。同じものを出してあげて」
わたしの言葉に、マスターが頷く。
「まあ、この酒場もあんたらみたいな悪魔さんが、たくさん来てくれるおかげで繁盛してるんだけどな――」
マスターが琥珀色の液体をグラスに注ぐ。
「酒癖が悪い悪魔さんも多くてね。気を悪くしたのなら、謝るよ」
ヴァリアルがグラスを手に取った。
「うむ……俺のほうこそ、声を荒げてすまんかった。みっともない姿を見せた」
「いいってことよ。お互い様だ」
マスターはそう言い残し、フロア客の相手をするためにカウンターから離れた。
わたしはグラスの中身をちびりと口に含んだ。
まろやかな味が舌の上に広がる。
ヴァリアルはクソが付くほど不器用で真面目な男だ。
まるで悪魔に向いていない。
こうやって酒でも飲んで定期的に発散しなければ、溜め込んだ鬱憤で破裂してしまうだろう。
もっとも、そこがかわいくもあるのだが……
「なあ、フルーネティ」
ぽつりと呟くヴァリアル。
「なに?」
「このところのサタナディア様は、一体どうなされてしまったのだろうか……以前よりも明らかに天使狩りに出る頻度が減っておられる。何やら長い時間考え込んでおられるかと思えば、本を読み漁りだしたり……俺は正直なところ、最近のあの方にどう接してよいのかわからん……」
「そうね……」
わたしは手の中でグラスを弄んだ。氷がカラリと音を立てる。
確かにわたしもサタナディア様の近頃のご様子には、違和感を覚えることが少なくない。
あの方は酷く気まぐれだ。
しかし、一連の不可解な行為が気まぐれからきているとは考え難い。
何かしら目的があるはずなのだが……
「勘違いするなよ。別にあの方への忠誠が揺らいでいるわけではない。微塵も揺らがん。ただ、ただな……」
言い澱むヴァリアル。そのどこかバツが悪そうな表情に、わたしはピンときた。
そうか、そういうことか。
「ふふっ。あなた、暴れ足りないのね?」
「うむ……実はそうなのだ……」
「素直なヒト……」
ヴァリアルがグラスの中身を一気に飲み干す。
今度は叩きつけずに、ゆっくりとカウンターにグラスを置いた。
「俺がもっとも生きていると実感できるのは、サタナディア様と共に戦っているときだ。あのお方の超絶的な強さ、あのお方がおられる高みに……少しでも俺は近づきたいのだ。そのためなら、如何なる苦労も厭わん」
「気負い過ぎよ、あなた……」
ヴァリアルは上ばかり見ている。それが悪いとは言わない。
しかし、足元を疎かにしていては、いつ何時誰に掬われるか……
それが天使である可能性も捨てきれない。
天使との戦いは現状、悪魔が圧倒的に優勢だ。
サタナディア様がその流れをお作りになった。
天使どもがこの戦況を覆すことは容易ではない。
しかし、懸念がないと言えば嘘になる。
他でもない、サタナディア様の存在だ。
わたしは知っている。あのお方が天使を狩る理由――
それはあまりにシンプルで、常人には理解し難い。
故にサタナディア様は止まらないだろう。
しかし、狩りが終わったとき、あのお方の倦怠がもたらす牙はどこへ向けられるのか。
今は考えても詮無きことかもしれないが……
わたしはグラスを指で軽く弾いた。涼やかな音が酒場の喧騒に掻き消される。
「そろそろ帰りましょうか、ヴァリアル」
「うむ」
勘定をカウンターに置き、立ち上がる。
天使どもの悲鳴が消えるその日まで、わたしたち悪魔が立ち止まることはない。