最終幕
『夜明け』
目的を果たしたエトワールたちがヴァンパイアの神殿を出たときには、すでに岩の天井から青白い光がもれ始めていた。
あと半刻もしないうちに日が昇るだろう。
チョリセ家を出たのがちょうど正午だったことを考えると、この洞窟の中に半日以上いたことになる。
さらにいうと、グラスホッパー村に着いてから丸二日ほど寝ていない。
ヴァンパイア退治が終わったとはいえ、これから長い洞窟を歩いて帰らなければならないのかと思うと、この場に倒れ込みたい誘惑にかられる。
聞き覚えのある声に目をやると、そこには十字架やらニンニクやらで武装したチョリセ夫妻がいた。
彼らなりのヴァンパイア対策なのだろう。
昔の怪奇小説でも読んで調べたに違いない。
だが、今回のような実際には信仰を持たない昆虫が変化(へんげ)したヴァンパイアには効き目がない。
ニンニクにしても、相手が生前に苦手としていなければ意味がない。
例えば、ピーマンが嫌いな人間がヴァンパイアになれば、ピーマンに弱くなるという理屈である。
とはいえ、魔性の巣窟であることを承知の上でここまで来てくれた彼らの気持ちは素直にうれしかった。
手を挙げて走り寄る夫妻に応える。
よほどエトワールたちのことが心配だったのだろう。
顔に満面の笑みをたたえている。
夫妻の人のいい笑顔は、疲れきったエトワールたちの心と体を癒してくれた。
──そして、悲劇は起こった。
このときのことを、エトワールは生涯後悔することになる。
背後にただならぬ殺気を感じ叫んだときには遅かった。
エトワールが残っている力を振り絞り、チョリセ夫妻を抱きふせようと飛び込む。
しかし、無情にも彼女の手は、夫妻の体に半歩届かなかった。
チョリセ夫妻の胸に数本の針が深々と突き刺さる。
神父に化けていたオスグモが断末魔に放ったあの毒針だ。
肉が焦げたような匂いをまき散らしながら、巨大なクモが狂ったような雄叫びを上げる。
ヴァンパイアの女王は生きていたのだ。
オスの3倍はあろうかという体躯、炎に焼かれ黒くただれたヒフが、暗雲のように天井から漏れるわずかな光をさえぎる。
クモの頭部にあたるところに、人間の女の顔がアンバランスにくっついている。
神殿で見たヴァンパイアの女王の顔だ。
これが彼女の真の姿だったのだ。
彼女の狙いはただ一つ。
自分をこんな目に合わせた女──エトワールを八つ裂きにすることだった。
とっさにモミーとハマーが左右から押さえつけようとしがみつくが、剛毛に包まれた長い節足にあっさりと振り払われる。
5メートル以上吹き飛ばされ、しこたま地面に叩き付けられた二人はそのまま意識を失ってしまった。
正体を現したヴァンパイアの女王は、二人の男のことなどまるで眼中に入らない様子で真っ直ぐ突き進んでくる。
エトワールは数発の弾丸を残した愛銃を構えるが、その動作にいつものスピードはなく、女王グモの八本の足に、なんなく阻止されてしまった。
彼女はすぐさま銀の剣をサヤから抜き、八本足を七本足に変えてやるが、怒りに狂ったヴァンパイアの女王は痛覚すら忘却の彼方へと置いてきてしまったようだ。
失われた足のことなど無視して、エトワールの横っ面をなぎ払う。
彼女の倒れた体が木の葉のように地をすべる。
ガードした上からでも響く重い攻撃。
脳しんとうを起こし、気を失いそうになる。
持ち前の人百倍の負けん気で、かろうじて意識は保てたが、目の前の世界がグルグルと回っている。
エトワールの頭を踏みつけ、勝利に酔うヴァンパイアの女王が高らかに詠う。
ムシヨラズの花はすでに使い果たしている。
さきほどの攻撃をガードしたときに使った左腕も骨折しているようだ。
絶体絶命のピンチ。
だが、エトワール・ローゼンクイーンは、ここであきらめてしまうような女ではない。
あきらめたとき、心がくじけたときが本当の敗北だと思っている。
カッコ悪くてもいい。
最後の最後まで、あがき抜いてやる。
エトワールは自由のきく右腕を伸ばし、フトモモの内側に忍ばせていた切り札を取り出した。
それは小型の拳銃──改造をほどこし、一発だけではあるがマグナム並みの威力を持つ銃だった。
もう他に武器はない。
これをはずしたら……。
慎重に狙いを絞り、引き金を引く。
ズギューン!
弾丸は女王グモから大きく外れ、洞窟の天井へと食い込む。
最後の望みが岩肌に弾かれ、虚しくこだまする。
獲物の最後のあがきがムダに終わったのを見て、ヴァンパイアの女王は悦に入った表情であざ笑った。
しかし──
凛とした曇り一つないエトワールの顔に小さな光が射す。
女王グモは、見慣れない光を不思議そうに目で追った。
すると、その光が自分の胸に開いている小さな穴から漏れていることがわかった。
驚いて目をやると、洞窟の天井からまばゆい光が差し込んでいるのが見えた。
天井に空いた穴が徐々に崩れ落ち、広がっていく。
希望の光とは、まさにこのことだった。
毎日のように目にしている太陽の光が、このときほどありがたく思えたことはない。
エトワールの狙いは女王グモではなく、薄くなっていた天井の岩盤だったのだ。
彼女は傷つきながらも、このチャンスを虎視眈々と待っていた。
そして、チャンスは訪れた。
死に直面してもなおあきらめない。
エトワール・ローゼンクイーンの真骨頂である。
神々しい朝日が女王グモの体を焼き、浄化していく。
確かにそうかもしれないとエトワールは思った。
この女王グモは生きるために食べていただけだ。
その行為自体に罪はない。
だが、自分たちも生きていくためには戦わなければならなかった。
戦わなければ死んでいた。
これからも生きていくためには、必ず何かを犠牲にしてゆかねばならないのだろうか?
しかし、それではあまりにも悲しすぎる。
エトワールはヴァンパイアの女王が陽を浴びて灰に還ってゆくのを見届けながら、そんなことを考えていた。
倒れていたチョリスを抱き起こすと、彼は息も絶え絶えに妻を案じた。
アイリス夫人の容態は脈を取るまでもなかった。
目を開けたまま天を仰ぎ、身動き一つしない。
その左胸には数本の毒針が刺さっている。
エトワールは何も言いわず、首を横に振るしかなかった。
チョリスとて医者である。
自分の体を蝕みつつある毒が、どういう類のものか承知しているだろう。
動物の毒には神経毒と血液毒とが存在するが、チュウゲンチスイドクグモが持つ毒針は血液毒である。
血液毒の成分には組織を壊す酸の他に、赤血球を破壊する溶血素、白血球など防衛的な細胞を壊す細胞溶解素、凝血を妨げる抗凝血物質などが含まれる。
この毒が体内に入ると、燃えるような痛み、出血、発熱、吐き気、そしてケイレンや心臓発作といった症状を誘発する。
しかも巨大化したクモから生み出された毒とあっては、微量でも人を死に至らしめるに十分であった。
エトワールは自分の油断を後悔した。
あのとき、ヴァンパイアの女王の死体をちゃんと確認しておけば──
あのとき、自分が気を抜いていなければ──
あのとき、自分が身をかわさなければ、あるいは──
自責の念が頭の中で暴れ回る。
この人たちは、自分を案じたために犠牲となったのだ。
優しさゆえの不運。
エトワールは胸が張り裂ける想いだった。
死を覚悟した彼は、心残りをエトワールに託そうとしていた。
弱り切った彼の声はほとんど聞き取れなかったが、訴えかける眼差しがすべてを物語っていた。
エトワールは彼の手をしっかりと握りしめ、それに応えた。
彼女の答えを聞いたチョリスは、安心した表情を浮かべ、大きく息を吐いた。
これが彼の人生最後の呼吸だった。
エトワールは泣いた。
声を出して、思い切り泣いた。
勇気ある夫婦を天へと導く光も、彼女の瞳からあふれ出すものを止めることはできなかった……。
あと半刻もしないうちに日が昇るだろう。
チョリセ家を出たのがちょうど正午だったことを考えると、この洞窟の中に半日以上いたことになる。
さらにいうと、グラスホッパー村に着いてから丸二日ほど寝ていない。
ヴァンパイア退治が終わったとはいえ、これから長い洞窟を歩いて帰らなければならないのかと思うと、この場に倒れ込みたい誘惑にかられる。
チョリス
「エトワールさま!」
聞き覚えのある声に目をやると、そこには十字架やらニンニクやらで武装したチョリセ夫妻がいた。
彼らなりのヴァンパイア対策なのだろう。
昔の怪奇小説でも読んで調べたに違いない。
だが、今回のような実際には信仰を持たない昆虫が変化(へんげ)したヴァンパイアには効き目がない。
ニンニクにしても、相手が生前に苦手としていなければ意味がない。
例えば、ピーマンが嫌いな人間がヴァンパイアになれば、ピーマンに弱くなるという理屈である。
とはいえ、魔性の巣窟であることを承知の上でここまで来てくれた彼らの気持ちは素直にうれしかった。
手を挙げて走り寄る夫妻に応える。
よほどエトワールたちのことが心配だったのだろう。
顔に満面の笑みをたたえている。
夫妻の人のいい笑顔は、疲れきったエトワールたちの心と体を癒してくれた。
──そして、悲劇は起こった。
このときのことを、エトワールは生涯後悔することになる。
エトワール
「伏せてェェェッ!!」
背後にただならぬ殺気を感じ叫んだときには遅かった。
エトワールが残っている力を振り絞り、チョリセ夫妻を抱きふせようと飛び込む。
しかし、無情にも彼女の手は、夫妻の体に半歩届かなかった。
チョリセ夫妻の胸に数本の針が深々と突き刺さる。
神父に化けていたオスグモが断末魔に放ったあの毒針だ。
肉が焦げたような匂いをまき散らしながら、巨大なクモが狂ったような雄叫びを上げる。
ヴァンパイアの女王は生きていたのだ。
オスの3倍はあろうかという体躯、炎に焼かれ黒くただれたヒフが、暗雲のように天井から漏れるわずかな光をさえぎる。
クモの頭部にあたるところに、人間の女の顔がアンバランスにくっついている。
神殿で見たヴァンパイアの女王の顔だ。
これが彼女の真の姿だったのだ。
彼女の狙いはただ一つ。
自分をこんな目に合わせた女──エトワールを八つ裂きにすることだった。
とっさにモミーとハマーが左右から押さえつけようとしがみつくが、剛毛に包まれた長い節足にあっさりと振り払われる。
5メートル以上吹き飛ばされ、しこたま地面に叩き付けられた二人はそのまま意識を失ってしまった。
正体を現したヴァンパイアの女王は、二人の男のことなどまるで眼中に入らない様子で真っ直ぐ突き進んでくる。
エトワールは数発の弾丸を残した愛銃を構えるが、その動作にいつものスピードはなく、女王グモの八本の足に、なんなく阻止されてしまった。
彼女はすぐさま銀の剣をサヤから抜き、八本足を七本足に変えてやるが、怒りに狂ったヴァンパイアの女王は痛覚すら忘却の彼方へと置いてきてしまったようだ。
失われた足のことなど無視して、エトワールの横っ面をなぎ払う。
彼女の倒れた体が木の葉のように地をすべる。
ガードした上からでも響く重い攻撃。
脳しんとうを起こし、気を失いそうになる。
持ち前の人百倍の負けん気で、かろうじて意識は保てたが、目の前の世界がグルグルと回っている。
女王
「よくもォォォッ、よくも、わらわをこのような目に合わせてくれたな!!
人間なぞ、わらわにとって、ただのエサのはず!!
いや、エサでなければならぬのじゃ!!」
人間なぞ、わらわにとって、ただのエサのはず!!
いや、エサでなければならぬのじゃ!!」
女王
「人間はエサ!
我らヴァンパイアは捕食者!
これが永きに渡って続いてきた人間とヴァンパイアの関係なのじゃ!!」
我らヴァンパイアは捕食者!
これが永きに渡って続いてきた人間とヴァンパイアの関係なのじゃ!!」
エトワールの頭を踏みつけ、勝利に酔うヴァンパイアの女王が高らかに詠う。
ムシヨラズの花はすでに使い果たしている。
さきほどの攻撃をガードしたときに使った左腕も骨折しているようだ。
絶体絶命のピンチ。
だが、エトワール・ローゼンクイーンは、ここであきらめてしまうような女ではない。
あきらめたとき、心がくじけたときが本当の敗北だと思っている。
カッコ悪くてもいい。
最後の最後まで、あがき抜いてやる。
エトワールは自由のきく右腕を伸ばし、フトモモの内側に忍ばせていた切り札を取り出した。
それは小型の拳銃──改造をほどこし、一発だけではあるがマグナム並みの威力を持つ銃だった。
もう他に武器はない。
これをはずしたら……。
慎重に狙いを絞り、引き金を引く。
ズギューン!
弾丸は女王グモから大きく外れ、洞窟の天井へと食い込む。
最後の望みが岩肌に弾かれ、虚しくこだまする。
女王
「アーッハッハッハッハッ!!
バカめが!
どこを狙っておるのじゃ!!」
バカめが!
どこを狙っておるのじゃ!!」
獲物の最後のあがきがムダに終わったのを見て、ヴァンパイアの女王は悦に入った表情であざ笑った。
しかし──
エトワール
「いいえ。
狙い通りですわ。」
狙い通りですわ。」
凛とした曇り一つないエトワールの顔に小さな光が射す。
女王グモは、見慣れない光を不思議そうに目で追った。
すると、その光が自分の胸に開いている小さな穴から漏れていることがわかった。
女王
「な、なんじゃ、この光は!?」
驚いて目をやると、洞窟の天井からまばゆい光が差し込んでいるのが見えた。
天井に空いた穴が徐々に崩れ落ち、広がっていく。
希望の光とは、まさにこのことだった。
毎日のように目にしている太陽の光が、このときほどありがたく思えたことはない。
エトワールの狙いは女王グモではなく、薄くなっていた天井の岩盤だったのだ。
彼女は傷つきながらも、このチャンスを虎視眈々と待っていた。
そして、チャンスは訪れた。
死に直面してもなおあきらめない。
エトワール・ローゼンクイーンの真骨頂である。
神々しい朝日が女王グモの体を焼き、浄化していく。
女王
「なぜじゃ……?
わらわはただ生きていただけなのに……。
人間も、植物や動物の犠牲の上に生きているであろう?
わらわもそれと同じように、ただ食べて生きてきただけ……それなのに……なぜ……?」
わらわはただ生きていただけなのに……。
人間も、植物や動物の犠牲の上に生きているであろう?
わらわもそれと同じように、ただ食べて生きてきただけ……それなのに……なぜ……?」
確かにそうかもしれないとエトワールは思った。
この女王グモは生きるために食べていただけだ。
その行為自体に罪はない。
だが、自分たちも生きていくためには戦わなければならなかった。
戦わなければ死んでいた。
これからも生きていくためには、必ず何かを犠牲にしてゆかねばならないのだろうか?
しかし、それではあまりにも悲しすぎる。
エトワールはヴァンパイアの女王が陽を浴びて灰に還ってゆくのを見届けながら、そんなことを考えていた。
チョリス
「うっ、うぅ……エトワール様……か、家内は?」
倒れていたチョリスを抱き起こすと、彼は息も絶え絶えに妻を案じた。
アイリス夫人の容態は脈を取るまでもなかった。
目を開けたまま天を仰ぎ、身動き一つしない。
その左胸には数本の毒針が刺さっている。
エトワールは何も言いわず、首を横に振るしかなかった。
チョリス
「……そう……ですか……。」
チョリスとて医者である。
自分の体を蝕みつつある毒が、どういう類のものか承知しているだろう。
動物の毒には神経毒と血液毒とが存在するが、チュウゲンチスイドクグモが持つ毒針は血液毒である。
血液毒の成分には組織を壊す酸の他に、赤血球を破壊する溶血素、白血球など防衛的な細胞を壊す細胞溶解素、凝血を妨げる抗凝血物質などが含まれる。
この毒が体内に入ると、燃えるような痛み、出血、発熱、吐き気、そしてケイレンや心臓発作といった症状を誘発する。
しかも巨大化したクモから生み出された毒とあっては、微量でも人を死に至らしめるに十分であった。
エトワールは自分の油断を後悔した。
あのとき、ヴァンパイアの女王の死体をちゃんと確認しておけば──
あのとき、自分が気を抜いていなければ──
あのとき、自分が身をかわさなければ、あるいは──
自責の念が頭の中で暴れ回る。
この人たちは、自分を案じたために犠牲となったのだ。
優しさゆえの不運。
エトワールは胸が張り裂ける想いだった。
チョリス
「エ、エトワール様……ありが……とう……ございま……す。
あなたのおかげで……む、む、村は救われました………。」
あなたのおかげで……む、む、村は救われました………。」
エトワール
「しゃべらないで。
毒のまわりが早くなりますわ。」
毒のまわりが早くなりますわ。」
チョリス
「……エトワール様…………お、お願いです……どうか……どうか、娘のこと……クレアのことを………。」
死を覚悟した彼は、心残りをエトワールに託そうとしていた。
弱り切った彼の声はほとんど聞き取れなかったが、訴えかける眼差しがすべてを物語っていた。
エトワールは彼の手をしっかりと握りしめ、それに応えた。
エトワール
「安心なさって。
娘さんは、このエトワール・ローゼンクイーンが立派に育てて見せますわ。」
娘さんは、このエトワール・ローゼンクイーンが立派に育てて見せますわ。」
彼女の答えを聞いたチョリスは、安心した表情を浮かべ、大きく息を吐いた。
これが彼の人生最後の呼吸だった。
エトワールは泣いた。
声を出して、思い切り泣いた。
勇気ある夫婦を天へと導く光も、彼女の瞳からあふれ出すものを止めることはできなかった……。