探偵失格
─新宿
レインウォーカー事件─
第2幕
『青葉瑠璃花』
――最期の光景だと思うと、夜空がひどく寂しげに見えたことを、よく覚えている。塾の講義が終わったあと、そのままビルの屋上へと上がり、フェンスを乗り越えた先で両手を広げ、夜空を仰いだ。
あと一歩前に踏み出せば、人々の行き交うコンクリートの海にダイブして、木っ端微塵。
親に言われるがまま勉強漬けで退屈だった私の人生で、最も派手な光景が繰り広げられる。
想像するだけでワクワクして、なかなか踏み出せない。
どうせなら、もっと多くの観客が集まってからでないとね。
フェンスの外が騒がしくなってきた。
私の凶行に気付いて、大人たちが集まってきたのだろう。
でも遠くから「どうしたの?」「危ないから戻ってきなさい」などの、ありきたりな呼びかけをするばかりで、近寄ろうともしない。
それも当然だ。
もし自分の行動がきっかけで私が飛び降りれば、責任重大。
ヒト一人の命を左右する覚悟なんて、誰も持ち合わせていない。
私みたいな、愛想ひとつ振りまけないクソガキが相手なら、尚更だろう。
「私の人生って、何だったのかな……?」
これまで何も考えずに勉強してきたけど、私は不意に考えてしまったんだ。
自分は一体、何のために生きてきたのだろう、って。
勉強するため? いい学校に入るため? 親に褒められるため?
何も答えが浮かばなかった。
その瞬間、自分の人生がヒドく空虚で、空っぽに思えて仕方なくなって――
すべてを投げ出したくなってしまったんだ。
「キミの人生が何かなんて、キミにしか答えを出せないだろ!?」
突然大声で呼びかけられ、思わずフェンスの外へ振り返る。
いつの間にか、サンタクロースを思わせる容姿の恰幅のいい警官が、フェンスを挟んで私の真後ろに立っていた。
「お、おじさん、何なの……?」
「見ての通り警官さ! キミみたいな、困っている子を救う正義の味方だよ!」
自分の手よりずっと小さなフェンスの隙間に無理やり手を突っ込みながら、警官が大声で、でも優しく語りかける。
「キミが何に悩んでいるかは知らない! でもキミがまだ! 自分の人生に答えを出すには若すぎることは分かる! だから、何があっても死なせない!」
「や、やめ――」
思わず後ずさってしまって、足場から足を踏み外し、宙へと投げ出された――
「いけない!!」
でも次の瞬間、警官さんがフェンスに無理やり腕を通して、私の手を掴んでくれた。
死にたがっていたはずなのに、私は無意識のうちにその手を握り返してしまっていて。
目からはボロボロと涙があふれ出していた。
「どう、して……? 私、死にたかった、はずなのに……」
「キミが今悩んでいる問題は、誰もが悩むし、誰もが間違える。それに、答えはいくらでも変わる。昨日正しかったことが、今日も正しいとは限らない」
警官さんの手は、こじ開けたフェンスに引っ掻かれて、血まみれだ。
きっと私の命を危険に晒したことで叱られるだろう。
フェンスを壊したことで、器物破損の責任だって負わされるかもしれない。
私を助けたところで、このサンタクロースみたいな見た目の警官さんには、何もメリットがないはずだ。
それなのに、痛そうな顔ひとつ見せずに、警官さんは笑顔で言葉を続ける。
「今日のところは私がキミの命を支える。明日からはキミ自身で、自分の命の重さを理解するんだ」
これが、私の人生に意味を見出せたきっかけ。
私を救ってくれた遊上さんのような警官となるために、私はその日から一層勉学に励み、夢を叶えた。
だけど、いざ警官になってみると、遊上さんのように命を守る機会なんて全然訪れず、デスクワークばかりで。周囲にも、使命感に燃える同僚など一人もおらず。上手くいかないことばかり。
そんな時に回ってきたのが、外道探偵と共に新宿レインウォーカー事件を解決するという、今回の仕事だ。
上からの当てつけであろうと構わない。
私は自分の信念にかけて、これ以上命が失われることは防ごうと、心に決めていた。
◆
久しぶりに赴いた新宿の街。事件で人通りが減ったとは言っても依然として通行人の多い表の通りを抜け、地下のパーキングに車を停めると、外道探偵と共に目当ての交番へと向かい始めた。
エレベーターで地上へと上がり、両脇に様々な店の立ち並んだ通りを進んでいると、外道探偵がもどかしそうに口を開いた。
「ねぇ、るりちゃん。捜査中くらい手錠を外してくれてもいいんじゃないかな?」
「外しませんよ。あなたの油断ならなさは、昨日あなた自身が証明してくれたでしょう?」
「おやおや。善意からの行動だったっていうのに、想いはなかなか伝わらないものだね」
わざとらしく肩を落としてみせる外道探偵。
季節外れな袖の長い薄手のコートを羽織っていて、袖に腕は通さず、手錠で後ろ手に縛られている。
この状態なら、傍目には手錠で拘束されているとは思われない。
私も今日は制服ではなく私服なため、目立たずに捜査が可能なはずだ。
「るりちゃんもコートか。梅雨も近いのに二人してコート姿なんて、目立たないかなぁ?」
「春物のトレンチコートなので、ご心配なく。殺人鬼を隣に置く以上、防衛手段を携帯できる服装じゃないといけませんから」
「クヒヒ……物騒だなぁ。コートの中から聞こえる革の擦れるような音は、拳銃のホルスターかい? いい備えだと思うよ」
脅しの意味も込めて拳銃の所持をほのめかしてみたが、平然と、むしろ楽しげに返事をする外道探偵。
やはり、この男は一筋ではいかない。
何があっても気を抜かないようにしよう。
「それで、今日はどこを捜査するのかな?」
「まずはこの新宿にある交番を巡って、現場の巡査たちに話を伺います」
「そうか、新宿には交番が多いからね。それぞれの話を照らし合わせようというワケか」
「ええ。資料に書かれた今までの事件の情報は、頭に入れましたか?」
「バッチリだよ、マイ・パートナー♪」
おどけるように笑いながら、周囲の店々を指差しながら外道探偵が語る。
「レインウォーカーはこれまでに七人を殺傷しているが、今歩いているような賑やかな通りでは一度も犯行に及んでいない。通り魔的と言われてはいるが、実際にはきちんと犯行場所を選んでいる」
「よく読み込みましたね、その通りです。この繁華街の中でも数少ない、目撃者を抑えられる場所。レインウォーカーはそのような場所を選んで犯行に及んでいます」
「クヒヒ……つまり世間で言われているような、単なる狂人の犯行ではないというワケだ。そそるねぇ」
「そそられないでください……恐らく犯人は、あなたみたいにズル賢い狂人なのでしょうね」
「褒め言葉かい?」
「いいえ侮辱です」
他愛ない会話を続ける間に、多くの人々が行き交う駅前に到着した。
多くのバスが停車するロータリーの片隅に設けられた交番、新宿駅春口交番が第一の目的地だ。
中を覗き込むと警官が一人、デスクに座って書類仕事に追われている。
よほど集中しているのか、私たちに気付く様子がない。
驚かせないよう、そっと声をかけてみよう。
「あのー……よろしいですか!?」
「ぎゃっ!? は、はい! 本官にご用でしょうか!?」
警官が跳ねるように立ち上がって、ビシッと敬礼。
私は罪悪感を覚えつつ、警察手帳を懐から取り出した。
「驚かせてごめんなさい。私は本庁捜査一課の青葉警部補です。新宿レインウォーカー事件について、話を伺いにきました」
「ああ、本庁の! 事情は聞いていますよ! 私は春口交番所属の、佐藤巡査です! 私でよければいくらでもお話をしますよ!」
佐藤巡査は快く自分の知る限りの情報を話してくれた。
レインウォーカーらしき人物の目撃証言が日々大量に届いていること。その情報を書類にまとめる作業に追われ、休む暇もないこと。午後からは街の巡回もしなければならず、不安だということ。
現場は疲弊しているだろうとは思っていたが、想像以上に苦しい状況で同情を禁じえない。
「レインウォーカーの目撃証言で有力なものはありますか?」
「いえ……どれも共通点に乏しく、お手上げ状態です。正直レインコートを着ていたという証言も、本当なのか疑わしいと思いますよ」
「そう、ですか……」
「るりちゃん、このファイルを開いてくれないかな」
外道探偵が机に置かれたファイルをあごで指してみせた。
ファイルの表紙には『巡回当番表』と書かれている。
「外道探偵、何か気になることでもあるんですか?」
「いや、佐藤巡査は相当に疲れている様子だからねぇ。みんなどれほどの頻度で巡回をしているのかな、と思って」
心配したような顔で語る外道探偵。
短い付き合いではあるが、ウソだとひと目で分かる。
この顔はきっと、何か気になる点があったに違いない。
手錠で手が不自由な外道探偵に代わって、仕方なくパラパラと捲ってあげた。
曜日が書かれたスケジュール表に、恐らくこの交番に所属する警官であろう人物名が、不規則に記入されている。
見たところ、規則性のようなものは読み取れない。
「佐藤巡査、巡回はどのような頻度で行っているんですか?」
「今は、日によってバラバラですね。突発的な事案も少なくないので、みんなで臨機応変に対応している状態です」
「なるほど……クヒヒ、なるほど、なるほど」
ファイルを見ながら、気持ち悪い笑い声をあげる外道探偵。
その様子に佐藤巡査はドン引きしている。
ただ、私には何の動揺もなく、自分が少し慣れ始めていることに気付いた。
それから駅近くの交番を巡ったあと、駅から少し離れた新宿和泉町交番へと向かった。
ビルの建ち並ぶ中でも異質な、正面からみて左半分がゆるやかな曲線で、右半分が真っ直ぐな壁という独特なフォルムの建物。
新宿でも指折りの治安の悪さで有名な和泉町の、表と裏の両面を表したような外観だ。
その建物に近づくと、入り口から元気よく一人の警察官が飛び出してきた。
「わっ!? し、失礼しましたぁ!」
「こちらこそ不用意にごめんなさい。あなたは、この交番《ハコ》の巡査さんですか?」
「ええ、その通りです! 私はこちらの新宿和泉町交番所属、竹田巡査であります!」
ビシッと敬礼する竹田巡査。
ショートカットに浅黒い肌、濁っていない目。
いかにも、警官になりたてといった容姿だ。
ただ、そんな若い警官の顔にも、目に深い隈《くま》ができていて、連日の捜査による疲れが見てとれた。
「私は本庁の特対所属、警部補の青葉です。遊上《ゆがみ》巡査部長に話を伺いに来たのですが、いらっしゃいますか?」
「あ、遊上巡査部長でしたら……ちょ、ちょっとした用で交番を空けています。今から探してきますので、中で待っていていただけますか!?」
「それなら私も一緒に探しますよ。遊上巡査部長とは顔馴染みなので、すぐにわかりますからね」
「そ、それは助かります! 本官は午後から巡回の仕事がありますので、早く見つけなければならず……ありがとうございます、青葉警部補!」
竹田巡査から詳しく話を聞くと、どうやら周囲から子どもの泣き声らしきものが聞こえたと言って、いきなり飛び出していったらしい。
昔から変わらないその破天荒な行動に、私はつい吹き出してしまった。
「遊上巡査部長はまだ近くにいますね。では竹田巡査、別々の場所を探してみましょう」
「なら俺は、中で珈琲でも飲みながら待っているよ。いってらっしゃ――」
「あなたも来なさい!」
「ぐえっ」
交番の中へと入ろうとした外道探偵の首根っこを掴み、私は竹田巡査と別れ、街中を走り出すのであった。
◆
子どもの声の元へ向かったということは、そこまで遠くに離れていないはず。明かりのついていない夜の店が建ち並ぶ通りを駆け抜けながら、周囲を見渡し、目的の人物を探し続ける。
五分ほど走り回ってようやく――道の脇に子どもと一緒に座る男性を発見した。
サンタクロースを思わせる大きな体格にたっぷりの口髭。11年前に私を救ってくれた時から変わらない姿のその人は、涙目の子どもに優しく語りかけていた。
「お母さんもきっと心配しているから、おじさんと一緒に行こう。大好きなキミを見つけたら、きっと力いっぱい抱きしめてくれるはずさ」
「……ママは心配してないよ。いつも暗くなるまで、ずっと一人でパチンコしてるもん。ぼくのことなんてどうでもいいんだ」
「どうでもよかったら、キミをここまで連れてきてないよ。さぁ、立って。お母さんのところへ行こう」
体操座りでうつむく子どもと視線を合わせるように身を屈め、聞き取りやすいよう、ゆっくりと語りかける。以前に教えてもらった通りの、正しい子どもへの接し方。
その様子を見るだけで、目の前の男性が如何に思いやりにあふれているかがわかる。
だからこそ、私はこの人に憧れたんだ。
「……遊上巡査部長、お久しぶりです」
「ん? あ――!?」
私の姿を見た途端、遊上巡査部長はパッと表情を明るくした。
「久しぶりだねぇ! 話は聞いているよ、レインウォーカー事件の話を聞きたいんだろ?」
「ええ。久しぶりにお会いできて嬉しく思います、遊上巡査部長」
「あっはっは、そんな堅苦しくしないでくれよ! キミと私の仲じゃないか! えーっと、そちらの人は彼氏さんかな?」
「死んでも違います」
「今までで一番怖い声。流石の俺もへこむなぁ」
わざとらしく語る外道探偵を無視して、私は遊上巡査部長に事の経緯を話した。
「なるほど……大変な役を務めることになったものだね。交番を勝手に空けてしまってごめんよ」
「いえ、子どもの声を聞いてすぐに行動に移る。相変わらず、遊上巡査部長は警官の鑑だと思います」
「はっはっは、警部補にそこまで言ってもらえるなんて光栄だよ!」
「あ……」
今の自分の地位に今更ながら気付き、何も言えなくなった。
私はバカだ。今の私から何を言っても、巡査部長には皮肉しか思えないかもしれないというのに。
「青葉警部補、悪いが話はまたあとでいいかな。まずは、この子を母親の元へと連れて行かないといけないからね」
「も、もちろんです! すみません……仕事の邪魔をして……」
「ははは、気にしないでくれよ。よしユウキくん、じゃあおじさんと一緒に行こうか」
ユウキくんというらしい子どもの手を引きながら歩き出す遊上巡査部長。
その後ろに、私と外道探偵も続く。
「警察の鑑のような人だねぇ。るりちゃんも、彼に世話になったことがあるのかい?」
歩きながら外道探偵が囁くように訊ねてきた。
無視してやろうとかとも思ったけど、誰かにこの気持ちを吐き出したい気持ちが勝って、つい答えてしまう。
「ええ……私の憧れの人です。私は過去に、受験を苦に自殺を図ってしまったことがありましてね、その時に身体を張って止めてくれたのが遊上巡査部長だったんですよ」
やりたいこともないのに毎日学校に通い、帰りは塾に拘束され、家に帰ってからもまた勉強する。そんな繰り返しを続けるうちに、私は自分の命の価値がわからなくなった。
だから世界に価値を問いかけようと、塾のあるビルの屋上から身を投げようとしたんだ。
今思えば、如何にも思春期らしく、身勝手で短絡的。
でも当時の私にとっては、自分なりに考え抜いた、切実な行動だった。
「ビルから身を投げかけた私の手を、命綱もなしに掴んでくれたのが遊上巡査部長だった。自分が無価値だと思っていた私に、命の価値を説いてくれた。そして私も、みんなの価値ある命を守りたいと思って警官を志したんです」
「いい話じゃないか。キミの言う通り、警察官の鑑のような人だねぇ。同じく、命を尊ぶ者として、スゴく共感できるよ」
「……殺人鬼がよく言いますね」
「おいおい、それは殺人鬼への偏見だよ。俺は命を何よりも尊いものだと思っている」
話に付き合っていられず、私は外道探偵の言葉を無視して一人考えた。
そう、遊上巡査部長は今も昔も理想的な警官だと思う。
でも今の警察庁の階級制度では、私のように厳しい条件をクリアして入庁した所謂『キャリア組』でなければ、階級がある時点で頭打ちになる習わし。
もちろんキャリア組にはキャリア組の苦労があり、私が今回事件を押し付けられたような当てこすりだってあるから、一概にどちらが優れているかなんて決められない。
ただ入庁して日の浅い現時点で、私の地位がベテランの遊上巡査部長より上なのは確かだ。
先ほど目にした竹田巡査の疲労した様子からもわかる通り、命を守る最前線に立つ人たちはその苦労に関わらず、低い地位が約束されている。
自分にはどうしようもない現実だとは知りつつも、どうしてもやるせない気持ちにならざるを得ない。
「ユウキ!」
女性の大声が聞こえてきて、ハッと顔をあげた。
見ると、遊上巡査部長の隣のユウキくんに、母親らしき女性が駆け寄ったかと思うと、その頬にいきなりビンタをした。
「アンタどこへ行ってたの!? 私が働いている間はゲームコーナーで遊んでなって言ったじゃん!」
「……もう遊ぶものがないもん」
「何を贅沢言ってるワケ!? 遊ぶものがない子だっているんだからね!」
もう一度女性がユウキくんにビンタをする。
派手なコートに露出の多い服装。偏見で申し訳ないけれど、言動も服装も、とても子持ちの女性とは思えない。
私はもう居ても立ってもいられず、ユウキくんと女性の間に割って入った。
「本庁捜査一課所属、青葉警部補です。その子は寂しさに耐えきれず、迷子になっていたんですよ、話をお聞かせ願えますか?」
「ハァ? 警官が何の用だよ。ただガキが言いつけを破って、勝手に迷子になったってだけじゃん」
「ま、迷子になっただけって……」
あまりに無責任な言葉に、胸の奥がカッと熱くなった。
「今新宿は殺人事件が多発しているんですよ? 子どもを一人にして、心配じゃないんですか!?」
「いや関係ないし。殺人くらいどこでだって起きてんじゃん。心配しすぎててウケるんだけど~」
「あ、あなた! 命を何だと思って――」
「青葉警部補」
遊上巡査部長が私の肩を叩き、首を横に振った。
冷静さを取り戻し、怒りを無理やり飲み込んで、肩を落とす。
そうか。
これ以上は、一介の警官が踏み込んでいい領域じゃないんだ。
私は拳をギュッと握りしめて、怒りをがんばって抑えた。
そんな私の頭にぽつりぽつりと冷たい雫が降ってくる。
見上げると、まるで私の心情に呼応したみたいに、雨が降り始めていた。
「ハァ!? 雨降るとか聞いてないんだけど!? ねぇヒゲの警官さん、傘貸してくれない!」
「すみません……警官は傘を持ち歩かない決まりなんです。雨合羽ならあるのですが」
「合羽とか着たら髪がヤバいことになるじゃん! マジ使えねぇ~! 意味わかんない因縁をつけられるわ、雨に降られるわ、マジでムシャクシャする~!」
女性は苛立った様子で自らの髪を掻き乱すと、財布から千円札を取り出してユウキくんに握らせた。
「ユウキ! ママは気晴らしに遊んでくるから、一人で適当に飯食って帰りな!」
「……わかったよ、ママ」
そのまま、母親の女性はユウキくんを置き去りにして街の中へと消えてしまった。
レインウォーカーの影響を受けてもまだ、あのような人がいるのかと、苛立った気持ちが収まらない。
これでは、警察がいくらがんばったって、命の守りようがないじゃないか。
「ユウキくん、今日はおじさんと一緒にご飯を食べようか。それから、パトカーで家まで送ってあげるよ」
「え……!? ほ、本当!? パトカーに乗れるの!?」
「ああ、本当さ。ユウキくんが行きたい場所があるなら、ついでに寄ってあげたっていい」
そんな私をよそに、遊上巡査部長はユウキくんに声をかけてあげていた。
それまで暗い顔をしていたユウキくんを、瞬く間に元気をしてしまうなんて。
あれだけヒドい言葉をかけられた張本人だというのに、本当にスゴい人だ。
「すまない、青葉警部補。話をするのは、また後日でいいかな?」
「ええ、もちろんですよ。ユウキくんを最優先にしてあげてください」
「ちょっと待ってくれ、遊上巡査部長。ひとつだけ聞いてもいいかな?」
それまで大人しく見守っていた外道探偵が口を開き、遊上巡査部長に問いかける。
「あなたは今日みたいに、突然交番を空けることが珍しくないのかい?」
「……あ、ああ、その通りだ。ついつい感情が先走ってしまってね」
「やっぱりそうか♪ ありがとう、遊上巡査部長。ユウキくんによろしくね」
それだけ言うと、外道探偵は私に断りもなく、おもむろに歩き出した。
慌ててその隣に追いついて、問いかける。
「い、いきなり何ですか!? レインウォーカーの正体の足取りが掴めたんですか!?」
「悪いけど、まだ五割ってところかな。その半分を埋めるためには、和泉町交番に戻る必要がある」
「い、和泉町交番に……?」
理解の追いつかない私に構わず、早足で歩き続ける外道探偵。
私には、その隣に追いつくために、必死で頭と身体を動かし続けることしかできなかった。
◆
和泉町交番の前まで戻ると、ちょうど竹田巡査と鉢合わせた。……しまった。
元々は、彼から遊上巡査部長を見つけるよう頼まれていたというのに、完全に忘れてしまっていた。
「青葉警部補、お疲れ様です! 申し訳ありません……本官はどうしても、遊上巡査部長を見つけられず……」
「だ、大丈夫です、大丈夫です! 遊上巡査部長には先ほどお会いできたので、もうすぐ戻ってくるかと思います!」
事の顛末を話すと、竹田巡査はホッと安心したように胸を撫で下ろした。
「心配しましたよ。遊上巡査部長は本官の憧れですが、少々無鉄砲なところがありますからね」
「ああ、わかります。そこがいいところだと思いますけど」
「ええ、そこがいいところです」
竹田巡査と一緒に笑い合うと、いつの間にか交番内へと入っていたらしい外道探偵が出てきた。
一体何をしていたのだろう。
「外道くん、中で何を?」
「ちょっと野暮用でね♪ それより竹田巡査、少しいいかな?」
私の言葉を軽く流したかと思うと、外道探偵は竹田巡査に近づき、何かを耳打ちした。
「そ、それはどういう意味でありますか!?」
「意味はすぐにわかるさ。俺とるりちゃんはこの先の路地を巡回するから、あとからキミたちも付いてくるといい」
それだけ言うと、外道探偵はまた私の意見も無視して、一人で歩き出した。
もう呆れて怒ることもできずに、私はその隣に追いつき、並んで歩く。
「一応私は相棒なんですよ。そろそろ教えてくれてもいいんじゃないですか?」
「ああ、ごめんよ。キミに話すと作戦に支障が出てしまう恐れがあってね」
「信用がないですね」
「それはお互い様だろう?」
私は溜め息をつくと、バッグから折りたたみ傘を取り出し、傘を差した。
小さいけれど、二人分の頭くらいならカバーできる。
「傘があるなら、最初から出してくれてもよかったじゃないか」
「殺人鬼と相合い傘なんて嫌だったんです。でも……こんな時にそうも言っていられないでしょう?」
私は今日一日の捜査を振り返り、ユウキくんの笑顔や疲弊した巡査たちの様子、それに遊上巡査部長の言葉を想い返した。
ユウキくんの母親のように命を軽んじる人も少なくないかもしれない。
それでも、私は命を守りたいと思う。
そのためなら、殺人鬼と相乗りだって、相合い傘だってしてみせよう。
「みんなの命を守るために、私はあなたを信頼します。だから外道探偵、あなたも私を信じてください」
「ふふ、いい成長だね……青葉警部補。ここまで言われて、応えないわけにはいかないな」
いつものような嘲りでない、優しい笑い声を発して、外道探偵は言葉を続けた。
「警官は傘の所持を禁じられているはずだけど、傘を使っていいのかい?」
「え……? あ、ああ……それは制服の時だけで、今みたいな私服での聞き込みの時は、別に禁じられていないんですよ。そもそも、禁止の理由もよくわからない、昔から続く風習みたいなものですしね」
「そうか。つまりレインコートを義務付けられているのは、制服の警官だけ、ということになるね」
「ええ、その通りで、す――」
言われてみてハッとする。
レインウォーカーの目撃証言は僅か。
警察の懸命な巡回や捜査もむなしく、犯行は止まらない。
数少ない目撃証言は、レインコートを着ているということ。
そして現場の警官は必ず、レインコートを義務付けられている。
それらの要素を考えれば、私みたいな一警官でも答えを導き出すことができた。
「まさか、交番に勤める警官たちの中に、犯人が……!?」
「ああ、その通りだよ。でもここまでは素人でも考えつく妄想の範囲だ……ここからが外道探偵としての、俺の役割だろう」
外道探偵はビル街に入ったかと思うと、ビルとビルとの間、仄暗くて狭い路地裏に足を踏み入れた。
二人並ぶので精いっぱい。入り口と出口にしか陽射しが届かないため、夜のように暗く、誰からも忘れられたような寂しい空間。そんな路地裏の中心で、外道探偵がおもむろに足を止める。
「うん……いいね。殺人にうってつけの場所だ。俺が犯人なら、罠だと分かっていても、飛び込まずにはいられないよ」
私たちを追いかけるように、パタ、パタと、湿ったアスファルトを踏み歩く足音が近づいてくるのがわかった。
それは恐らく犯人のもの。
その足音に呼応したみたいに、私の心臓が高鳴る。
私たちを追いかけてきたということは、狙いはひとつだ。
犯人の狙いは間違いなく――
「さぁ楽しもう、青葉警部補。これから俺たちが向けられる感情こそ……本気の殺意さ」
パタ、パタ、パタ――
湿った足音が路地裏に響いたかと思うと、私はあまりに予想外な光景を目にすることとなった――
――第3幕『探偵失格』へ続く