遅咲きの桜

  ――5月の陽気は、不幸な人を一層惨めにして、死に誘う。
 オレが公園で “彼女”を見かけた時、いつか姐さんに言われた、そんな言葉が頭をよぎった。

 ゴールデンウィークが終わり、連休の余韻も薄れ始めた5月の半ば。
 雲一つない晴れやかな空の下、公園のベンチに一人の女性が座っていた。
 木陰のベンチで、ボーっと地面を眺めるその姿は、子供たちが滑り台やブランコで遊んでいる明るい公園には似合わない。
 寝不足なのか目の下にはクマが見え、今にも死んじまいそうな顔をしている。
 最近は物騒な事件も多いし、こういうヤバげな顔をしている人は要注意だ。
 オレは思うが早いか、女性に話しかけた。

「なぁ、こんなところでどうしたんだ。姉さん」

 オレの質問に女性はえらく驚いた様子だった。
 おっと、いけねぇいけねぇ。
 オレみてぇな目付きの悪いガキに突然話しかけられたら、そりゃあ驚くわな。
 少しでも警戒を解いてもらえるよう、いつも以上に明るく笑ってみた。
 すると、少しは気が楽になったのか、女性は少し間を置いたものの、ボソリと答える。

「……実は娘が行方知れずで」

 家族がいなくなったなんて一大事だ。
 今出会ったばかりのオレにさえ伝えるなんて本当に心細かったんだろう。

「……よし、ならオレが娘さんを捜索してやるよ」

 女性はオレの言葉にまた驚いて、遠慮がちに言いよどむ。
 自分が困っていても相手のことを気遣えるなんて、きっといい母《オカン》なんだろうな。
 そんな人を見捨ててこの場を去るのは、オレの性分に合わねえ。
 まだ仕事の途中だが、もうほとんど終わっているし、少しくらいの寄り道ならお天道様も許してくれるさ。
 何より、オレの勘が「放っておくな」って言ってるしな。

「探偵同盟の一人、”大和探偵”に任せてくれよな!」

 困っている人がいたら手を差し伸べる、それが探偵ってもんだ。
 探偵という言葉が効いたのか、女性はオレの言葉を聞いて、ポツリポツリと娘さんのことを話し始めた。

「始まりは、昨日の夜のことよ……」

 その日、帰宅したのは、いつもと変わらない22時ごろ。
 ――看護師なんてやるもんじゃない。
 そんなことを思いながら、私は靴のちらかされた玄関で、くたくたのスニーカーを脱いだ。
 電気をつけるのも億劫で、頼りになるのは遠く離れたリビングの明かりだけ。
 クタクタの身体を引きずりながらリビングに向かおうとすると、ガサツな生活で半ば物置と化した廊下が私の行く手を阻む。

(あぁ、また朝のゴミ出し忘れた)

 もう何度目になるかわからない失敗に気づきながら、立ち仕事でパンパンに張った足で、邪魔なものを脇に寄せて歩く。
 今朝ゴミに出す予定だった燃えるゴミの袋。中身の入ったままの宅配の箱。
 リビングに向かうまでに、いくつもの“後回しにされた何か”を押しのける。
 仕事が忙しすぎて家にいる時間が少ないのが、不幸中の幸いだろう。
 朝と夜通るだけなら、人が一人通れればそれで問題ない。

 毎日たまっていくツケに目を背けながら、明かりに惹かれるように私はリビングの扉に手をかける。

「ただいま……」

 最近は返事をしなくなった娘に帰宅を伝えるが、予想通り、返ってくる言葉はなかった。
 少し慣れてきた寂しさを感じながら、入ってすぐ左手にある台所へと目を向ける。
 すると、すでに二日分はたまっている洗い物が、無言で私に存在を主張してきた。
 食器の枚数を考えると、今晩中に洗い物をしなければ明日の朝食はコンビニ確定だ。

(この時間からの家事は辛い……)

 やらなければいけないことから逃げるように、私は買ってきたコンビニ弁当を片手にテーブルへと向かう。
 いつもテレビのリモコンやティッシュボックスが乱雑に置かれていたテーブルが、今日はやけに小ぎれいに片付いていた。
 何年使っているかもわからない木製のテーブルは傷だらけで、モノにあふれていた時には感じなかった年月の積み重ねを感じる。
 片づけられたテーブルの上で、ひときわ私の目を引いたのは、中心に置かれた一枚の紙切れと、千円札。
 それは今朝、いつも通り私が娘の菜月に向けて用意した書き置きと、ゴハン代だ。
 初めはボンヤリとしか認識していなかったその紙に焦点を合わせた時、私は手に持ったコンビニ弁当を落とした。

『こんな生活耐えられない』

 紙切れに赤ペンで大きく書き加えられた、菜月の字。
 一瞬、頭の中が真っ白になった。

 すぐに家中を探し、娘の身の見回り品がないかを確認する。
 携帯・財布・お気に入りのポーチ、すべて見つからなかった。
 家中を必死に漁り終えたところで、ようやく一番すべきことを思い出し、警察に通報する。
 警官が到着したのは、すでに日付けが変わった頃だった。
 玄関の扉を開けて、警官たちの顔を目にした途端、もう必死になって菜月のことを伝える。

「娘は……菜月はまだ15歳なんです。急いで見つけないと!」
「私ですか? 看護師をしているんですが、最近急患が多くて帰りが遅くなっていまして……」
「見た目ですか……写真で良ければすぐお渡しできます!」
 
 しかし、私の必死の訴えもむなしく、警官たちの反応は冷たかった。

 「家庭内トラブルになんてかまっていられない」とばかりに、警官たちは事務的な手続きを終えると、足早に家を後にする。
 再びゴミだらけの部屋に一人きりとなった私は、娘がいなくなったという現実と、改めて向き合わなければいけなかった。

「菜月《なつき》……どうして家出なんてっ」

 テーブル上の紙の、血みたいに赤い娘の字を見つめ、思わず泣き言を漏らした。

 ”東雲菜月”《しののめ なつき》。
 夫と離婚してから女手一つで育ててきた私の一人娘だ。
 立派な母親とは言えないまでも、できるだけ苦労はさせずに高校入学までたどり着いたと思っていたのに。

「どうして……どうしてよ、菜月!」

 思い切りテーブルを叩いた風圧で、書き置きの紙がふわりと飛び、部屋の脇のゴミ袋の山の上に乗った。

 娘と暮らす凄惨な部屋の凄惨な現状が思い出され、刺されたみたいに胸が痛む。
 思えば、最近は母親として最低限のことすらできていなかった。
 急増した病院の業務に追われ、帰りはいつも22時過ぎ。
 出し忘れたゴミや、洗っていない食器のせいで、何処かから鼻を突くようなニオイがする。
 最後にまともに会話したのも、ひと月前の入学式の日だったような気がするかな。
 噛み合わない日々の中で、いつの間にか、娘の姿が見えなくなってしまっていたように感じる。

「菜月……どこにいるの?」

 直視したくない何かに急き立てられるように、私は夜の街へ繰り出す。
 きっと、見つけられるかどうかなんて、どうでもよかった。

 一晩中歩き続けたのち、気が付けば私は一人、公園のベンチに座っていた。
 中央の広場では、備え付けの遊具で親子連れが仲睦まじく遊んでいて、彼女たちから逃げるように私は、木陰のベンチでそっと息を潜める。
 公園の時計を確認すると現在時刻は午前10時。
 娘の手紙を見つけてからもう半日近く経っていたが、見つかるどころか、手がかり一つ見つからない。
 ドラマでは両親が必死に探して子供を見つけるシーンを見るけれど、現実では素人がやみくもに何時間探したって、見つかるワケもないんだ。

「菜月、どこにいるの」

 年甲斐もなく、弱気が口から、涙が目からあふれ出す。 
 仕事ばかりを気にしてきたツケか、娘が高校に入ってからの1か月一ヶ月、私は娘と出掛けていない。
 娘が足を運びそうな場所には見当がつかなかった。
 娘の親しい友達も知らず、できることと言えば娘の高校周辺をさまようだけ。
 ただただ時間だけが過ぎていき、夜が明けた。
 こんなにも娘のことを知らなかったクセに、昨日までの私は母親としてやるべきことはやっている気でいたのもおかしな話だ。
 娘がいなくなるまで、私は娘と向き合えていなかったことに気づきもしなかった。

(母親失格ね)

 自分の情けなさに嫌気がさして、視線を足元に落とす。
 どこを見ても目に映る無邪気な子供たちの姿が、今の私には耐えられなかった。
 子供たちの笑い声や、ボールの蹴られる音、親たちの優しい呼び声が私の耳を痛める。
 陽気な雰囲気の公園でただひとり俯く私は、この場所に居てはいけない人間のような気がした。

 ――場所を変えよう。
 そう思って腰を上げようとすると、ずっと自分の足しか見えていなかった視界に、指の間に赤い紐を引っかけた、白くて小さな足が映り込む。
 よくよく見ると足の下には黒い下駄が見え、赤い紐の正体は鼻緒だった。
 ハッと視線を上げると、そこには一人の少女が立っていた。
 長い髪を後ろで一つに結び、動きやすそうな短パンと紫色のジャージを着こなす、見るからに快活そうな少女。
 背丈から見るに、歳は菜月よりも更に若い、中学生くらいだろうか。
 ただ、そのツリ上がった目は野生の獣みたいな鋭さがあって、
 少女は私が顔を上げたのに気づくと、ツリ目を細め、優しい笑顔でこう訊ねてきた。

「こんなところでどうしたんだ。姉さん」

 多分、私が落ち込んでいることに気づいて、声をかけてくれたのだと思う。
 娘よりも年若い少女にまで心配されるとは、これでは母親どころか大人失格だ。
 これ以上の恥の上塗りをしないよう、少女の問いかけに答えなければならない。
 でも、そんな気持ちとは裏腹に、昨晩のふがいない自分の姿が脳内を埋め尽くす。

「どうしたのか、ね」

 ゴミを足で退ける自分。驚いてコンビニ弁当を落とす自分。訳も分からず部屋中をひっくり返す自分。
 昨日の自分が、“今更取り繕っても無駄だ”と言ったように感じた。
 私は考えるのが馬鹿らしくなって、素直に昨日何が起こったのかを伝える。

「……実は娘がいなくなってしまって」

 事実を伝えて、少女すら気遣えない弱さをまた自嘲する。
 情けなく漏れ出した私の言葉はあまりにも弱々しくて、すぐに子供たちの笑い声にかき消された。
 しかし、目の前の少女は、溶けて消えた私の言葉をしっかりと受け取っていたようで、顎に拳を当てながら「んー」と考え込んだ。
 そして数秒すると考えがまとまったのか、固めた拳から人差し指をピンと伸ばして、彼女は再び口を開く。

「よし、ならオレが娘さんを捜してやるよ」

 満面の笑みと共に飛び出した言葉は私の予想を超える優しい提案だった。
 子供らしい優しさを受けて、少しだけ自分の頬が緩むのがわかる。
 あんなに情けなさに打ちのめされていたのに、自分へとむけられた子供の笑顔はこんなにも胸にしみわたるものだったのか。
 少女の明るい表情に少しだけ元気を取り戻した私は、直前まで失っていた大人としてあるべき姿を思い出す。
 子供に気を遣わせない。
 今からでもそれくらいのことはして見せる。
 私は疲れ切った表情筋を奮い立たせ、少女に向かって微笑みかけた。

「いいのよ、心配しないで。きっと見つかるから」

 すでに警察には捜索願を出している。
 年端もいかない少女をわざわざ巻き込む必要はない。
 気持ちだけ受け取ってまた捜索を再開するとしよう。
 幸い、疲労は峠を越して少し楽になった。
 でもそんな私の考えをよそに、少女はベンチに歩み寄り、私の肩に両手を乗せる。

「遠慮するなって、オレも仕事で人探しをしてるんだ。だからそのついでに手を貸そうってだけさ」

「……ありがとう、気持ちはうれしいんだけどね。正直に言うと、あなたのような子供になんとかなる話じゃないと思うの」

 少女の優しさに甘えないよう、努めて強い言葉を使う。
 せっかく声をかけてくれたのに、我ながらひどい言い草だと思う。
 しかし、彼女は私の言葉を聞くと今度は「ちっちっち」と口で言いながら得意そうな顔で続けた。

「見てくれはガキかもしれねぇけどよぅ、オレはこう見えて”探偵”なんだぜ?」

「探偵?」

 少女の言葉に反応して、改めて彼女を眺める。
 身長は娘よりも小柄だ。
 服から見えている手足は同じ年ごろの少女よりは引き締まって見えるが、せいぜい運動部のそれで、学生の域は出ない。
 パッと見ではスポーツ女学生にしか見えないこんな子供が探偵だなんて、ありえるのだろうか。
 いや、そう言えば最近、物騒なうわさ話に紛れて聞いたことがある。
 年齢や国籍にとらわれず凄腕の探偵だけで作られた秘密の組織があるらしいと。
 確か名前は――

「探偵同盟の一人、”大和探偵”に任せてくれよな!」

 少女が差し出した手に自然と手を伸ばす。

 夏が近づいてきているのを肌で感じる、少し蒸し暑い平日の公園。
 子供たちの喧騒から少し離れた木陰で、私と少女の奇妙な捜索劇が幕を開けた。

――第2幕へ続く