遅咲きの桜

第2幕
『母娘の香り』

 『大和探偵』を名乗る少女は初めに、「娘が着ていた物が欲しい」と言ってきた。
 自宅から娘の白いワイシャツを持ち出してきて、大和探偵に渡すと、ニオイをかきながら街中を歩き始めた。

 青空の下、一軒家が立ち並ぶ通りを、大和探偵の後ろについて歩いていく。
 犬みたいに歩く女子中学生と、目元にクマを作ったオバサンの組み合わせなんて、はたから見れば異様じゃないだろうか……などと悪い想像が働いて、つい周囲を伺ってしまう。
 そんな情けない私を尻目に、大和探偵は足を淀みなく進め続ける。
 住宅街を抜け、涼しげな並木通りを進んでいくと、私たちは娘の高校にほど近い繁華街までたどり着いていた。
 その繁華街は、アーチ状のガラス屋根で覆われた所謂『アーケード街』だ。
 屋根のおかげで大分軽減されているものの、容赦ない太陽の日差しと、天井にこもった熱気が、夏の気配を肌に感じさせた。
 屋根の下には、平日にもかかわらず学生から社会人、ご老人まで、たくさんの人が行き交っている。
 そこで私は、ハッと状況のマズさに気付いた。
 人が多いということは、当然ニオイも多い。
 店先で焼かれたクレープの甘いニオイに、揚げ物の香ばしいニオイ。行き交う誰かのサッパリとした整髪料のニオイや、強烈な香水のニオイ、そして太陽の元で歩いてきた私自身の、汗のニオイまで。
 この状況から服の残り香をたどるなんて、とてもじゃないが不可能に思える。

「や、大和探偵さん、こんな場所で、本当にニオイなんて追えるの?」

 シャツを片手に鼻をひくつかせる『大和探偵』に、すれ違う人たちが怪訝な顔をしている。
 私は彼らにペコペコと頭を下げながら、大和探偵の後ろに続く。
 
「任せとけって、弥生《やよい》さん。オレの鼻は猟犬並みだぜ?」

「猟犬並みって……ねぇ」

 流石に誇張過ぎると思ってつい苦笑を返すと、大和探偵は不服そうに唇を尖らせる。

「疑ってんな? じゃあ一つ言い当ててやるよ。弥生さん、アンタ看護師さんだろう?」

「え……? どうして、それを」

「オレの鼻だよ。アンタの服からは病院のアルコールのニオイがするんだ、嫌でもわかっちまうよ」

 自分で嗅いでみるけれど、うっすらと香るくらいで、遠くから嗅ぎ取れるとは思えない。
 どうやら口だけじゃなく、本当にスゴい鼻の持ち主のようだ。
 猟犬の鼻がどれくらい凄いのかはわからないが、自信はあるようだった。
 自身の言葉を証明するように、たくさんの強烈なニオイにまみれながらも、大和探偵は迷うことなく繁華街を進む。
 余りにも躊躇なく前を歩くので、少しでも気を抜いたら置いていかれそうだ。
 もし本当に彼女がニオイで娘を探しているとしたら、あの子からは大分特徴的なニオイが出ていたということになる。

「菜月はそんなに臭くないと思うんだけど……」

 足早に進む大和探偵についていきながら、一人娘の体臭事情を真剣に心配する。
 すれ違う人たちの香水や食べ物のニオイよりも臭う娘なんて想像したくない。
 すると私の呟きが聞こえたのか、前を歩く大和探偵が肩を軽く震わせて笑った。

「ははっ、心配すんなって。オレは菜月さんの身体のニオイを追ってるわけじゃねぇよ」

 私は独り言が聞かれていたのが恥ずかしくて、目を泳がせた。
 すると、ドラッグストアの前で投げ売りされる詰め替え用の洗剤が目に入った。

「そうなの、だとしたら――洗剤とか!?」
 
 恥ずかしさのあまり出てしまった大声に反応して、棚を整理していたドラッグストアの店員が輝いた瞳でこちらを見た。
 私は少し申し訳ないと思いつつ、そっと店員から目をそらす。
 今は特に洗剤に困ってはいない。 
 一方の大和探偵は、洗剤という単語を聞くと再び軽く肩を震わせる。
 笑われたのが恥ずかしくて、背中を小突くと大和探偵が、「ごめんごめん」といいながらどんなニオイを追っているのかを話し始めた。

「流石に何時間も経ってると本人とか、洗剤とかのニオイで見つけるのは難しいよ。けど今回は、ちょいと変わったニオイが混ざってるからな」

「変わったニオイ?」

「おう、珍しい香水のニオイとあとはまぁ――オレがよく知ってるニオイだ」

 ちょっと困ったような表情をしながら、言葉尻を濁す大和探偵。
 はっきりと言葉にすることが多い彼女にしては珍しいことだ。
 でも私は、彼女の変化以上に先に出た言葉が気になっていた。

「珍しい香水のニオイ……」

「あぁ、季節外れの桜のニオイだから目立ってんだよ」

「桜、ね。それなら、高校に入るときにせがまれて買った香水のニオイかもしれないわ」
 
 アーケード街を大和探偵と並んで歩きながら、一か月以上も前の記憶を掘り起こす。
 そういえばあの日も、これくらいの時間にこの繁華街を歩いていた。

 入学式直前の休日。「高校生になるんだから少しくらいオシャレがしたい」と力説する娘の圧に押されて、一緒に繁華街にあるコスメショップに行った。
 可愛らしい装飾を施された店の中で、娘はたくさんの化粧品を前に、遊園地に遊びに来た子供のように目を輝かせていた。
 紙に書かれた予算とにらめっこをしながら、「ああでもない、こうでもない」と真剣な表情で化粧品を吟味する娘の姿は本当に生き生きしていたと思う。
 私は化粧品に詳しくないこともあり、娘の後ろで彼女がいろいろな化粧品を試す姿を見ていただけだったが、それでも二人での買い物は楽しい思い出だ。
 結局、校則に「過度な化粧は控える」という文面があったことを思い出し、化粧品は買えなかったわけだけど、せっかく買い物に来たのだからと、一つだけ娘が欲しがったものを買ったのだ。

 それが――桜の香水。

「ほら、ちょうどあのお店よ」

 そういって数十メートル先にあるコスメショップを指さす。
 店先には今日も楽しそうな顔をしながら商品を吟味する、女学生たちの姿が見える。
 私の言葉を聞くと、大和探偵は合点がいったとばかりに力強く頷いた。

「なるほどな。母親からもらったもん、ちゃんと使ってんじゃねぇか。おかげで探しやすくて助かるぜ」

 そう言って、あっけらかんと笑う大和探偵。
 自分が渡した香水を今も娘がつけている。
 小さいことかもしれないが少し、気が楽になった。

「元々は私が使っていた香水なんだけどね。香りが気に入ったみたいで、娘にも同じものを買ったのよ」

「どうりで、弥生さんからも同じ匂いがすると思ったぜ。桜の香水なんて乙じゃねぇか」

「そう言ってもらえると嬉しいわ。ありがとう」

 褒められたのが嬉しくて、肩掛けのカバンから香水の瓶を取り出す。
 丸型のガラス製容器の上部に、細いキャップ部分が付いたアンティークな作りの瓶。
 スプレータイプではなく、瓶から数滴垂らして使うタイプのものだ。
 使い古して装飾はみすぼらしくなってしまったが、中身の香りはずっと変わらない。
 娘に買ったものと同じ、桜の香りだ。
 少し足を止めて蓋を開けると、慣れ親しんだ淡くて甘い香りが舞い上がる。
 香りに気が付いた大和探偵は、ゆっくりと私の隣に歩み寄ってきた。
 シャツからニオイを探す時とは違い、無闇に鼻を動かしたりはせず、口を閉じて、静かに呼吸をして香りを確認している。
 私がそうするのと同じように。
 道行く人たちは怪訝な顔で私たちを一瞥をしていくものの、私たちは気にせず、束の間の桜の香りを楽しんだ。

「……この歳になると、なかなか新しいものに変えられなくてね、もう10年以上も同じものを使ってるの。褒めてくれたのは大和さんと娘くらいよ」

 初めて使ったときに、まだ幼かった娘が「いい匂い」と言って抱き着いてきたことを思い出す。
 それが嬉しくて、ずっと同じものを使っていたような気がする。
 忘れていた記憶に思いを馳せながら、私は瓶の蓋をそっと閉める。
 少しだけこの香りを近くに置きたくなって、瓶はカバンではなく胸ポケットにしまった。
 隣にいた少女は少しだけ名残惜しそうな顔を見せると、前を向きなおしてまた歩き始める。
 私の視界に映ったのは、手に白いシャツをもって下を向く、一人の少女。
 俯いたその背中が何となく寂しそうで、彼女にかけられる言葉を必死に探した私は、出会った時から抱いていた疑問をぶつけた。

「それにしても、大和さんはなんで娘の捜索を手伝ってくれるの? さっき仕事の途中だって言っていたのに」

 私の言葉に反応して、少女は顔を上げ、後ろに振り向く。
 その顔に陰りはなく、私の心配は杞憂に終わったようだった。
 そして安心する私の顔を心底不思議そうな目で見ながら、彼女は話し始めた。

「あん? そりゃ弥生さんが困ってたからだろ。途中って言っても、ほとんど終わってるからな」

「……“困ってたから”ね」

 期せずして判明した理由は、想像以上に単純なモノだった。
 きっと彼女にとってはこれが自然で、当たり前なことなのだろう。
 探偵という特殊な職業にはついているが、彼女はまだ年端もいかぬ少女。
 ただ純粋に、困っている人を放っておけないのかもしれない。
 そう思うと、目の前の少女がずっと身近に感じた。

「ふふ」

「えっ、どうしたんだ急に! オレなんか笑われるようなこと言ったか!?」

 思わずこぼれた笑い声に少女が驚く。
 娘を捜索している時の真剣な表情とはまるで別物だ。

「いえ、ただ少し微笑ましいなぁと思って」

「微笑ましい? なんか美食の姐《あね》さんみたいなこというんだな」

「美食の姐さん……?」

「おう、オレの探偵のお師匠さんだ。綺麗な顔してめっちゃ強いんだぜ」

 “美食の姐さん”と、心の底から誇らしそうに少女はその名前を口にする。
 少年が大好きなヒーローを語るときのように、熱のこもった声と、爽やかな笑顔で説明する大和探偵の姿から、彼女が姐さんと呼ぶ女性をとても信頼していることが伺えた。

「美食の姐さんは大和さんにとって、とても大事な人なのね」

「ああ、オレの中では最強の名探偵だ。器も身体もデッカくて、喧嘩も強ぇ、心から尊敬できる人だぜ」

「尊敬できる……か」

 きっと、その人は大和探偵としっかり向き合い、触れ合ってきたのだろう。
 だから彼女のことを話すとき、大和探偵はこんなに生き生きとした顔をするのだ。

 ……だとしたら娘は、菜月はどんな表情で私のことを話すだろうか。

「……っ」

 娘から返事がなくても気にしていなかった自分の姿を思い出して、不意に手の力が緩む。
 それに気づいた大和探偵が、心配そうな表情で足を止めた。

「どうしたんだ弥生さん、寂しそうな顔して」

 大和探偵に握られた白いワイシャツは、アイロンがけを怠っていたこともあり、すでにいくつもの皺ができていた。
 私はゆっくりと大和探偵に近づくと、彼女が持っているワイシャツの袖をつかみ、皺を伸ばそうと何度も指でなぞる。
 当然、一度できた皺がその程度の力で消えるはずもなく、何度触れてもワイシャツの皺はくっきりとその場所に残っていた。
 無言でワイシャツを触る私を、大和探偵は何も聞かずに待っていてくれている。
 本当に優しい子だと思う。
 私は彼女の優しさに甘えるように、感情を口にした。

「……ちょっと、不安になってしまって。私はちゃんと菜月と向き合えていたのかなって」
 
 一人で菜月を育てなければと、そればかりを考えて菜月と正面から向き合えていなかったかもしれない。
 菜月としっかり話す時間をとれていなかったかもしれない。

 ……だから菜月に捨てられてしまったのかもしれない。

 年甲斐もなく目じりが熱くなる。
 慌ててカバンから取り出したハンカチは、昨日から使い通しでしわくちゃになっていた。それでも他に拭く物がなくて、私はヨレヨレのハンカチで目元をなぞる。
 商店街の道端で急に泣き始めた私は注目の的で、近くを歩いていたおじいさんも心配そうにこちらに視線を送ってきた。
 涙を拭く私の姿を見かねたのか、大和探偵は俯く。
 目の前の少女を安心させなければいけない。
 「私は大丈夫」と一言伝えるだけでもいい。
 なのにどうして、今の私にはその一言を口にすることができないのだろう。

 理由はわかっていた。娘に必要とされなくなるのが、こんなにも辛いということを知ってしまったからだ。
 美食の姐さんと呼ばれる人のように、もっとちゃんと相手と向き合っていれば、こんな感情を知らずに済んだかもしれない。
 身勝手な後悔の念におしつぶされそうだった。
 さっきまで近くに感じていた繁華街の喧騒が遠く感じる。
 意識が自分の内側に向いていくのがわかる。
 でも私の耳に、力強い大和探偵の言葉が届いた。

「……オレが言うのもおかしいけど、弥生さんはちゃんと菜月さんと向き合えてたんだと思うぜ」

 俯いたまま、彼女は言い切った。
 その時の彼女の声は快活な少女でもなく、頼れる探偵でもない。一人の女の子の声だったように感じる。

「そんなこと、ないわ……大和探偵さんは、私たち親子を知らないから言えるのよ」

「なくなくねぇって! 普通、好きでもねぇ母親と同じ香水なんてつけたがるか? 菜月さんは弥生さんに近づきたいから、わざわざ同じ香水を買ってもらって、今もつけてるんだろ?」

 そう言って顔を上げた時、彼女は出会ったときと同じように満面の笑みを浮かべていた。
 相変わらず屈託なく笑う少女だ。
 彼女はその笑顔のまま、ワイシャツをバッと広げると、肩口をもってシャツの正面を私の方に向けてきた。
 
「まぁ、もしそれでも弥生さんが気になるってんなら……今晩しっかり菜月さんと向き合ってやったらどうだい」

「向き合える、かしら」

 今からでも遅くはないだろうか。
 いなくなってから取り繕うように向き合おうとする私を菜月は認めてくれるだろうか。
 ハンカチを持った手が少し震えるのがわかる。

「菜月さんと向き合うのが怖ぇのか?」

 震えに気づいた大和探偵が、眉尻を下げながら問いかけてきた。
 心配を少しでも減らしたくて、私はハンカチを持った手をもう片方の手で隠す。

「……そうね。向き合わなきゃいけないってわかってはいるんだけど、一歩踏み出す勇気が出なくて」

「そっか……それじゃあ、勇気の出る“とっておき”を教えてやるよ」

 そう言うと、大和探偵はポケットからカードの束を取り出してシャッフルし始めた。
 そのカードは私が子供の頃にもあったもので、私は懐かしくなって口を開く。

「それって、花札? 懐かしいもの持っているのね」

 とても女子中学生のポケットから出てくるものとは思えない。驚く私を横に、大和探偵はシャッフルしながら“とっておき”の説明を始めた。

「コイツはオレが悩んだときに使ってるやり方さ。自分が信じられない時にコイツを引くんだ。一枚引いて、”桜”の札が出たら、腹ぁ括って自分を信じる。それ以外だったら、諦めるって寸法よ」

「ふふ、何よそれ」

 あまりに予想外の“とっておき”で思わず笑い声が漏れてしまう。
 自信満々に言ってはいるが、ようするに運任せだ。

 しかも花札は1月から12月まで、月ごとの花の絵柄が入ったカードゲーム。
 3月の絵柄である桜を引ける確率は10%もない。
 ほとんどの場合はあきらめることになってしまう。

(悩むたびにそんなことしてたら――あぁ、そうか)

 きっと彼女はほとんど悩むことがないのだろう。
 常に自分の決断を信じて行動に移す。
 だからこれは本当に“とっておき”で、実際にカードに自分の決断を委ねるなんてことはないのだ。
 これを出すまでもなく、彼女は自分を信じて行動しているはずだ。

「ふふっ」

「なんで笑うんだ? オレは真剣だぜ」

「いえ、やっぱり大和さんは凄いなって思っただけ」

 “桜”が出たら自分を信じて行動する。ならもう答えは出ている。

「ありがとう。大丈夫よ、“桜”ならずっと私の背中を押してくれてるから」

「そうか、ならコイツはいらねぇな」

 せっかく出した花札は使われなかったけれど、大和探偵は先ほどと同じように爽やかに笑った。

 “とっておき”のやり取りをした私たちは、心持ちを新たに菜月の捜索を再開した。
 商店街は今も多くの人が行き交い、普通ならニオイで捜索できるなんて到底思えない。
 でも、私の中に不安はなかった。捜索状況は変わっていないが、大和探偵と出会った時よりもずっと前向きな気持ちで、私は彼女の隣を歩く。
 そして、その鼻は確かに痕跡をとらえていたようで、スンスン動かす大和探偵に連れられて、私は賑やかな繁華街のはずれ、寂れた雑居ビルの合間にある薄暗い脇道の前で足を止める。
 横幅1mほどしかないその道は、たくさんの看板や大きな電光掲示板が目を引く大通りとはうって変わって、昼間とは思えないほど薄暗かった。
 色褪せた建物の壁に、飲食店のダクトやエアコンの室外機から放たれる埃っぽいニオイ。
 大通りの華やかさのしわ寄せを一手に引き受けたかのような薄汚さに、私は顔をしかめる。
 一方で、隣に立つ大和探偵は私とは対照的に、路地裏の奥をまっすぐと見つめていた。

「学校からニオイを辿り始めたのは正しかったな。菜月さんの良くねぇ友達《ダチ》が案内してくれてる。人通りの多いところは普通ニオイが消えやすいんだけどよぅ、“ソイツら”は幸い、そんなことじゃごまかせねぇニオイがしてっからな」

 遠回しの表現に、この不穏な通り。
 否が応でも、大和探偵の語る『ニオイ』の正体が察せられた。

「……今更だけど、いま大和さんが追ってるニオイってもしかしてドラッグ?」

「え!? い、いやいや! そんなことはないぜ! 菜月さんの服からドラッグのニオイがするなんて言ってねぇよ!」

「私は服からニオイがしてる、なんて言ってないわよ大和さん……」

 大和探偵は私に気を使って隠していた様子だが、これだけ状況がそろえば素人の私でもわかる。
 大和探偵はバツが悪そうに笑うと、地面に転がる空き缶を足で脇へよけながら、私の手を引いて奥へと進んでいく。
 そして汚い道を歩きながら、大和探偵は改めて今追っているニオイについて話し始めた。

「いやー、バレちまったらしょうがねぇなぁ。確かに、オレは香水のニオイっつうよりは、それに混ざったドラッグのニオイを追って菜月さんを探してるよ」

「やっぱり……」

 菜月の服からドラッグのニオイがしていたのであれば、これまでの道中に、大和探偵が言葉を濁していたのもよくわかる。
 彼女は私に菜月がドラッグに手を出していたことを悟らせないように気を使っていたのだろう。

「菜月がドラッグに手を出していたなんて思いたくないけれど……」

 大和探偵は洗濯した後の服から、日頃使っている香水のニオイをかぎ分けられるほどの鼻を持っている。
 彼女がドラッグのニオイがしたと言うのであれば、菜月が服につくほどドラッグのニオイの濃い場所に足を運んでいたのは間違いない。
 まさか菜月がそんな所に出入りしているだなんて、思ってもみなかった。
 私は少し肩を落としながら、隠そうとしてくれた大和探偵にお礼を述べる。

「気を遣ってくれてありがとう。大和さんの鼻を疑うわけにもいかないわよね」

「――おいおい弥生さん、早合点しすぎだぜ」

 力ない私の声を受けて何かを察したのか、大和探偵は素早く否定した。

「え?」

「オレは服のニオイから菜月さんを探しているだけさ。菜月さんがドラッグをやってたなんてことはオレにはわからない。だから弥生さんは、弥生さんが信じたいことを信じてりゃあいいんだよ」

 大和探偵の言葉にハッとする。
 確かに、服からニオイがしただけで菜月がドラッグに手を出していたかは大和探偵の鼻がわかるはずがない。
 彼女はまだ菜月と会っていないのだから。
 彼女がずっと追っているのはあくまで「服のニオイ」であって「菜月のニオイ」ではないのだ。

「親は……親だけは、子供を信じてあげなきゃ、いけないわよね」

「ああ、間違いねぇ。オレにはもう母《オカン》はいねぇけど、それは断言できるぜ」

 さきほど菜月と向き合うと決めたばかりなのに、早くも菜月を疑ってしまった。
 こんな調子じゃ、いざ菜月と出会ったときにも昨日までの私と変わらない姿を見せてしまう。
 心を落ち着けようと思い、軽く深呼吸をする。
 路地裏の空気は心底不味くて、こんな場所で息を整えるものじゃないと、鼻と肺が抗議してくるのがわかる。
 不味いくらいで丁度いい。
 昨日までの自分ならすぐに逃げていたであろう不快感を、今日の私は乗り越えて見せる。
 今日一日で大和探偵の姿から学んだことを思い出す。

 ――信じたいことを信じる、ならば私は菜月を信じたい。

 今度こそ決意を固めて、私は大和探偵に微笑みかけた。

「本当に、ありがとう大和さん」

「礼を言われると困っちまうな、オレは何もしてないぜ」

 大和探偵は照れ臭そうに、鼻の頭をこすると、気恥ずかしいのか歩く速度を少し早める。
 感情がすぐに行動に現れるところに、年相応の子供らしさを感じた。

 薄暗い道を進んだ先の路地裏の奥地は、落書きや放置されたゴミで完全に無法地帯と化していた。
 ニオイもひどいもので、スプレー塗料や腐った食べ物のニオイがいたるところから立ちのぼる。
 普通の嗅覚しか持たない私が不快に感じるくらいだ、大和探偵にはさぞきつい空間だろう。
 それでも彼女は眉一つ動かず、私を先導してさらに奥へと進んでいく。
 家から歩いて20分もかからない距離にある商店街だが、こんな場所があるなんて、今日まで私は知らなかった。
 自分の住んできた世界とは明らかに違う雰囲気を感じながら、大和探偵からはぐれないよう足早に歩く。
 
「……大通りから大分歩いたと思うんだけど、路地裏って結構長いのね」

「いや、こう見えて大きさ自体はそんなにねぇよ。今追ってるニオイの主が面倒な道を使ってるだけだ。今歩いてる場所も少し外れれば大通りに出るよ」

 大和探偵の言葉通りであれば、私が思っていたよりずっと近くに、この場所は存在していたということになる。
 ドラッグの件といい、自分とは縁遠いと感じていた危険が身近に潜んでいたことを知り、私は自分の服の袖を握る。

「話している間にも、着いたみたいだぜ弥生さん」

「着いたって、ここ?」

 大通りから10分程度歩いただろうか。私たちは入り組んだ雑居ビルの果てに、「Game Center」のライト看板が掲げられた、一軒の店にたどり着いた。
 緑と黄色で配色されたライト看板は、電球が切れかかっているのか怪しく明滅し、「ここに近づくな」と私たちに警告しているようにも思えた。
 足元には吐き捨てられたタバコの吸い殻に、口すら閉められていないコンビニのビニール袋など、分別のない人々の跡がある。
 壁にある凹みと赤黒いシミに関しては、どうしてこんな跡ができたのかは想像もしたくない。

「こんなところに、菜月が……」

 ずっと一緒に暮らしていたはずなのに、菜月は私の知らない世界を生きていた。
 思いがけず知ることになった事実にたじろぐ私を置いて、大和探偵は怖気づくことなく店に近づいていく。

「菜月さんがいるかはわからねぇけど、手がかりはあると思うぜ」

 離れていく大和探偵の背中に慌てて、私も後に続く。
 曇りガラスで作られた店の扉からはネオン街のような薄明りがこぼれ、大音量のゲーム音楽が扉越しにも耳を痛める。
 そしてゲームの音に紛れて、中からはいくつもの笑い声が聞こえた。
 話の内容は聞き取れないが、大きなボリュームと攻撃的なトーンから中にいる住人たちがどんな存在なのかは察することができた。
 大和探偵は眉間にしわを寄せてつぶやく。

「この奥だな。弥生さんは……ここで待っててくれ。中にはオレ一人で行く」

 一瞬間があったのは私の不安そうな表情に気づいたからだろう。
 心強い言葉だと思った。本当に、ここで待っていればどれだけ楽だろうか。
 大和探偵が中に入って、私は今のまま知らない世界からは目を背けていられる。
 何も知らず、昨日と同じ世界で生きていられる。
 それが嫌だったから、私ははっきりと首を横に振った。

「それはできないわ。大和さんだってまだ中学生だし、何より娘のことを人に任せて待っていたくはないの」

 足手まといになる可能性のほうが高いとはわかっている。ただ、すべてを大和探偵に任せてなんておけない。
 湧き上がる恐怖を押し殺し、私は決意と共に大和探偵の顔を見据える。
 思いが伝わったのか、大和探偵はあっさりとついていくことを許してくれた。

「よし、わかったよ。そんな顔されたらダメとは言えねぇ。ただし、絶対オレより前には出ないでくれよ?」

「ありがとう。我が儘を言ってごめんなさい」

「いいってことよ。その気持ちを、菜月さんにもちゃんと伝えねえとな」

 そうだ。今日の目的は菜月と向き合ってしっかりと話すこと。
 そしてそのためにいなくなった菜月を探し出すこと。

「まぁ安心しろよ。オレぁ昔は『不良潰し』と言われててな……神に逢おうが、仏に逢おうが、この拳でブッ潰してやんぜ」

 大和探偵が鳴らした拳の音が、私の弱気を消し去ってくれる。
 もう後には戻らない。
 大和探偵と私は扉の奥へと足を踏みいれた。

 廃墟の中は、学校の教室程度の空間に、古いアーケードゲームの筐体が乱雑に並べられていた。
 騒がしくゲームの音が鳴り響き、照明が切れているのか、店内を照らすのは、不規則に光るゲームの筐体だけ。
 限度を知らない音と光の暴力に顔をしかめつつ、ゲームの筐体を掻き分けて進んでいくと、店の中心部には不自然に空間が作られている。
 そして、そこにはいかにもガラの悪そうな不良たちがたむろしていて、突如として現れた私たちに敵意の視線を向けていた。

「ん? なんだよお前ら? 今日は俺たち『沈黙の毒蛇《サイレントスネイク》』の集会があるんだ。関係ないやつはとっとと帰んな!」

 一番近くに立っていた金髪鼻ピアスの不良が、蟹股で私たちに近づいてくる。
 今までの人生で向けられたことのない露骨な敵意の接近に思わず足がすくむ。
 しかしここで折れては菜月を見つけ出すことはできない。
 不良があと一歩のところで立ち止まったのを確認すると、私は意を決して口を開く。

「私たちは――」

 しかし、私の言葉を大和探偵の左手が遮る。
 視界に移った大和探偵の顔は先ほどまでの優しい少女ではなく、仕事に向かう一人の“探偵”としての顔をしていた。

「お前たちがこの辺りでドラッグを売ってる『ダサイレンジャー』だな。調べはついてる、全員おとなしく警察までついてきな」

(……ん?)

 今、明らかに相手が名乗っていた名前とは、似ても似つかない名前が聞こえた気がした。
 ……きっと私が聞き間違えたのだ。

「サイレントスネイクだ!! 喧嘩売ってんのかお前!」

 やっぱり間違えていた。
 
「うるせぇな、そんなダセー横文字、覚えらんねえよ! 日本男児ならバシッと、『西郷隆盛』くれぇ男らしい名前にしとけ!」

「チームの名前をダセェだと、てめぇ殺すぞ……!!」

 直前まであった残り一歩のスペースに足を踏み入れ、大和探偵の胸倉をつかもうと手を伸ばす。
 でも、その手が到達するよりも早く、大和探偵が啖呵を切った。

「テメーが、このオレをか? 笑わせんなよ……三下の分際で」

 言葉を終えると同時に、大和探偵はすぐそばにあったロッカーを殴りつける。
 雷でも落ちたみたいな音と共に、スチール製のロッカーが無惨にひしゃげる。
 その光景に、明らかにこちらを舐めていた不良たちの空気が一変し、たじろぐのがわかった。

  後ろから見ている私でさえ怖いと感じるのだ、正面から受け止めている不良が気圧されるのも当然だろう。
 一瞬の静寂。
 それを破ったのは部屋の一番奥にいた男の飄々とした声だ。

「おいおい、面倒はやめてくれよ」

 声の主は、胸元の大きく空いたシャツを着て、金色の下品なネックレスを何本も首からぶら下げている。
 男はネックレスをジャラジャラ言わせながら、革靴でわざとらしく足音を立てて、ゆっくりと大和探偵の前まで歩いてくる。
 大音量のゲーム音が鳴り響いていたが、私の本能がこの男から注意をそらしてはいけないと必死に彼の足音を拾っていた。
 毒蛇を思わせる斑色の髪に、刈り上げたこめかみに入った蛇のタトゥー。
 爬虫類を想わせる、ギョロギョロとした金色の目。
 不良の力関係がどう決まっているのかはわからないが、周りの不良たちの視線からわかる。
 この男がこのグループのリーダーだ。

「ジャ、ジャバラさん……すんません」

「いいからどけ、噛みちぎるぞ」

 ジャバラと呼ばれた男は、たじろぐ不良たちを押しのけ、私たちの方へ歩み寄る。
 男の接近を感じとった不良が脇に退くと、私たちはリーダー格の男と相対した。
 四方から浴びせられるゲーム画面の不規則な明かりが、男の不気味さを際立たせる。
 筐体がすべて壁を背に配置されていたのは、彼をより不敵に見せるためなのかもしれない。
 男の視線が大和探偵の顔を捉える。
 その視線が顔から胸、胸から腰へと移っていくのがわかる。
 軽薄そうな口調と無遠慮な目の動きに反応して思わず鳥肌が立った。
 まだ中学生の彼女を、こんなにも下品な目で見られることが信じられない。
 ジャバラは大和探偵の全身を目でなぞると、ようやく口を開いた。

「いやぁ、最近何人かの仲間がパクられたって話は聞いていたが、お前のせいか」

「……」
 
 軽薄そうな男の声に、大和探偵は答えない。
 無視されたことでジャバラは一瞬イラついたように眉をひそめたが、すぐに余裕そうな表情を作り、あざ笑うように言葉を続けた。
 
「ただまぁ、残念だったな。パクられた馬鹿どもと違って俺たちはドラッグに手は出してない。なんだったらこの場所を隅から隅まで探してみるといい。現物なしで捕まえられるなら捕まってやるよ」

 その顔には自信と嘲笑が伺える。
 だが、男の言っていることはおそらく嘘だ。
 この部屋には普通の感覚しか持たない私でも気づけるほど、不快な甘ったるいニオイが満ち溢れている。
 鼻の奥にこびりつくような独特なニオイは、大和探偵が覚えてしまうのも納得できるくらい強烈なものだった。
 これでドラッグに手を出していないなど無理というものだ。
 激しく明滅する光と、大音量のゲーム音楽に甘ったるいニオイ。
 五感全てを痛めつける店内に辟易しながら、私は探偵である少女の言葉を待つ。
 だが、鼻をヒクつかせた大和探偵の言葉は私の予想とは全くの逆だった。

「……なるほど。確かに部屋中にドラッグのニオイが染みついちゃいるが、実物は本当にないみたいだな」

 これだけニオイを放っているにもかかわらず、ドラッグはこの部屋にはない。
 冷静な大和探偵の言葉が、けたたましく鳴り響くゲーム音楽の合間を縫って私の耳に届く。
 大和探偵の言葉をうけ、少しいぶかし気に、しかし相変わらず得意げにジャバラが尋ねてくる。

「おいおい、一歩も動かずにわかるわけないだろ。もっとちゃんと調べろよ。まぁ、この人数を見てそんなことする勇気はないよな」

 当然の反応だろう。彼女の卓越した嗅覚を知らなければ誰だってこう思う。
 「目の前の少女は自分に恐れをなして、適当なことを言っているのだ」と。
 自分の優勢を悟ったのか、ジャバラは得意げな表情を浮かべた。

「気が済んだならとっとと帰んな。女子供の来るところじゃねぇんだ」
 
 ドラッグの処理を終えていたのか、明らかに勝ちを確信している様子だった。
 けれど、ここにきて大和探偵が食い下がる。

「いや、まだもう一つ用があんだよ」

 その瞳は自分を見下す男の顔をしっかりと見つめ、自分がまだ負けていないと伝える。勝ちを確信している男は口元を吊り上げながら大和探偵の言葉を待っていた。
 大和探偵は男の後ろ、店内の最奥を指さして口を開く。

「奥にいる女の子を返してもらうぜ」

「……適当をほざくなよ、ガキが。ここには、女なんていねぇよ」

 苛立った様子でこめかみのタトゥーを掻きつつ、ジャバラが答えた。
 ――奥にいる女の子? それって、まさか……。

「隠しても無駄だぜ、ジャララ。テメーも不良の端くれなら、聞いたことあんだろ? どんな誤魔化しも小細工も効かねぇ『不良潰し』の伝説をよぅ」

「ジャバラだ、クソガキ! 何が『不良潰し』だよ、あの厄介なガキはどこかの探偵にシメられたっつう話だろうが! まさか、てめぇがその『不良潰し』だとでも言うのかよ?」

「その、“まさか”だよ」

 大和探偵が拳を鳴らすと同時に、ジャバラの表情が崩れた。

「まさか、てめぇが……?」

「久しぶりでも間違えねぇよ。助けを求める女の子のニオイと……テメーら不良《ゴミ》の腐ったニオイはな」

 男に先ほどまでの余裕はなくなり、奥にある扉に視線を送る。
 スチール製の扉はしっかりと閉ざされており、その奥を伺うことはできない。
 しかし、男の反応を見る限り扉の奥には大和探偵が言う通り女の子がいるのだろう。

 私の一人娘“東雲菜月”が。

 しかし、男が動揺したのは一瞬だった。
 男がパチンッと指を鳴らすと、周りにいた不良たちが私と大和探偵を囲い込む。
 私はようやく不自然に中央が開けられていた意味に気づく。
 一枚しかない扉をくぐってきた敵を、数の有利で押しつぶせるよう、広いスペースを設けていたのだ。

「……ちっ。面倒くさいな。鼻の利く探偵がうろついているとは聞いていたが、まさかこういう意味だとは思わなかったよ」

 男はすでに冷静さを取り戻し、軽口を挟む余裕すらある。

「奥に何があるかなんてもちろん俺は知らないが、ただまあこれ以上詮索されても面倒なんでな、こっちは20人もいるんだ。いくらあの『不良潰し』でも、どうにもならないだろ」

 口で勝つことは出来ないと判断したのか、不良たちは実力行使にその方針を変えた。
 正しい判断だ。
 いくら大和探偵が馬鹿力でも、こちらは2人でしかも私は喧嘩なんて一度もしたことがない。
 20人の喧嘩慣れした不良に襲われたらひとたまりもない。
 不安になって大和探偵に視線を送ると、一瞬こちらを向いた大和探偵と目が合う。
 彼女は目で「大丈夫」とだけ私に伝えると、リーダー格の男ジャバラに向き直る。
 いろいろな角度から怪しく照らされた男は、私の前にいる少女よりもずっと危険に見えた。

「……20人で粋がるなよ、お山の大将」

「噛みちぎられろ、クソガキ」

 パチンッともう一度指が鳴らされた――それが開戦の合図だ。

 正面から2人の不良が大和探偵に殴りかかる。大和探偵は一人目のパンチを左手で受け止めると、男の拳を握ったまま左半身を後ろに引いて、不良を引き倒す。

「うぎゃ!」

 全力で拳を振りぬいていたのだろう。
 自分の力を利用され、バランスを崩した不良は、受け身も取れずに顔面から床に倒れこんだ。
 次の瞬間、ゴンッという鈍い音がしたかと思うと、不良の身体から力が抜ける。額を強く打ち付けて気を失ったようだ。

「調子乗んなよクソガキィ!」

 しかし、もう一人の不良は怯むことなく大和探偵に殴りかかってくる。
 一方、大和探偵は引き倒した勢いを利用して、左足でその場を踏み込む。
 そして左足を軸に身をひるがえすと、迫りくる二人目の不良に右足で回し蹴りを放った。

「なっ――」

 身体全体をコマのように使い放たれた強烈な回し蹴り。
 まるでボールでも蹴っているかのように、不良の身体が宙を舞い、数メートル離れたゲームの筐体に激突する。
 不良がたたきつけられた衝撃で画面が砕け、先ほどまで怪しい光を放っていた筐体は、光を失う。
 蹴りだけであんなに人が飛ぶなんて話は、長い看護師生活でも聞いたことがない。
 大和探偵の戦闘力は明らかに常識の範疇を超えていた。

「……」

 余りにも現実離れした出来事に先ほどまで威勢の良かった不良たちも沈黙する。
 店内には大音量のゲーム音だけが響き渡っている。
 ほんの数秒の間に、この場で最も小柄な少女が、この場にいるすべての人間を支配していた。
 動きを止めた不良たちを見ると、大和探偵は少し拍子抜けしたように呟いた。

「……なんだ、もう来ないのか?」

 その言葉を皮切りに、不良たちは一斉に彼女に襲い掛かる。
 彼らを駆り立てるのは仲間を倒された怒りでも、人数に任せた自信でもない。
 目の前の少女に対する純粋な恐怖だ。

 そこから先は大和探偵の独壇場だった。
 流れるような動きで、迫りくる不良たちを相手取っていく。
 受ける、投げる、掃う。開幕の回し蹴りのような派手さはないが的確に、1人また1人と不良たちを伸していく。
 先ほどまではこの場所を怪しく照らしていた光も、今では大和探偵へ向けたスポットライトのように思えるくらいだ。
 そこには先ほどまで私と話していた中学生の少女の面影はない。
 まるで子供の頃に観たヒーロー番組の主人公のような、そんな頼もしい背中が私の目の前には広がっていた。
 だがそんなヒーローの姿に見とれていたせいで、私はリーダー格の男の動きに気づくのが遅れてしまった。

(あっ!)

 さっきまで私たちの近くにいたリーダーの男は、側近と思われる不良とともに部屋の隅の扉へ逃げていく。
 10数人で殴り掛かっているにも関わらず、誰一人大和探偵に届いていないことで勝ち目がないことを悟ったのだろう。

(ここで逃げられたら、またはじめから探しなおすことになる……)

 数を減らしているとは言え、部屋にはまだ意識のある不良が10人弱いる。
 大和探偵がすぐに後を追うのは難しい。

(……大和さんは奥の部屋から菜月のニオイがするって言ってた)

 きっと危ないことだ、何ができるかもわからない。
 それでも、ここで一歩踏み出せなければ、私はきっと菜月とまた向き合えない。
 自分の選択を信じて隅の扉へ向かって走りだす。
 少しでも不良たちの目から逃れられるよう、壁際に置かれたゲーム機の前を全力で。

(私だって、菜月を助けるために来たんだから!)

 部屋中に漂う甘ったるいニオイをかき分けながら、必死の思いで走りぬける。
 筐体から生み出される音と光が、私の耳と目を傷めつける。
 慣れてきたとはいえ、すぐ近くを走るのは苦痛だった。
 だが幸い、不良たちは大和探偵以外見えていないのか、彼らは誰一人、私の動きに気づくことはなかった。
 そして私は大した障害もなく、ほんの数十秒で、奥の扉の前に立っていた。
 走り出す前はずっと遠くに思えた扉は、走り出せばすぐにたどり着ける場所にあった。
 
(……菜月、今いくからね)

 待っているかなんてわからない。
 置手紙のことを考えるとむしろ来るなと思っているかもしれない。それでも今は止まりたくなかった。

 ――向き合うと決めたから、自分を信じて一歩を踏み出すと決めたから。

 ギィィという鈍い音と共に、重たくて冷たい扉をこじ開ける。
 奥の部屋は車庫になっていたようで、瓶や缶が打ち捨てられた部屋に、数台のバイクとエンジンのかかった灰色のバンが止めてある。
 そして私は遂に、リーダー格の男に左肩で抱えられる、意識を失った菜月を見つけた。

「菜月っ、菜月!」
 
 ようやく見つけた。
 菜月がいなくなってからたった半日なのに、仕事をしていたころと変わらない時間なのに。
 随分と長いこと会っていなかったような気がする。
 いや、実際その通りだ。菜月と向き合わずにいたこの一ヶ月、本当の意味で私は菜月と会っていなかったのだから。
 私の登場に、ただでさえ不機嫌だったであろうジャバラが激しい怒りの顔を見せる。
 コメカミの蛇のタトゥーを掻きながら、男は怒鳴り声をあげた。

「はぁ? なんだよお前、お呼びじゃねえんだよ!」

 先ほどただの不良に凄まれた時以上の恐怖が、自分の中に芽生えるのがわかる。
 相手は不良を束ねている人間だ。
 きっと私なんかよりずっと力があって、人を攻撃することにも抵抗はないだろう。
 一方で私は大和探偵と違って、見た目通りに弱くて、生まれてこのかた喧嘩なんかしたこともない。
 けれど、そんなことはどうでもいい。不良なんかよりも娘がいなくなることのほうがずっと怖い。
 意を決して、私は両手で男の右腕を掴む。

「菜月を離して!」

「あぁ!?」

 しがみ付いた私にむき出しの敵意が差し向けられる。
 今度はもうかばってくれる人はいない。

「時間がねぇんだよ! ババァが喚くんじゃねぇ!」

 私を振り払うために、男が腕を思いきり振る。
 想像以上の力に、私は勢いに負けて後ろに倒れこんでしまった。

「うっ!」

 倒れこんだ拍子に、近くに落ちていた工具箱に背中を打ち付ける。
 角ばった箱の隅が背骨の近くに直撃し、鋭い痛みが身体に走る。
 だが、割れた瓶やガラス片に倒れこまなかっただけマシだ。
 私は負けじと男の右足に掴みかかる。

「菜月を、離して!!」

 少し時間を稼げばきっと、大和探偵がここに来てくれる。
 情けない話だが今の私にできるのは、彼女が来ることを信じて、男を逃がさないことだけ。
 それが私が唯一、この男にできる抵抗だ。
 抱き着くように、私は両腕を男の足に回す。
 先ほど振り払われたことを忘れず、今度は手だけでなく、腕全体でしがみ付く。
 男は私を振り払おうと何度も右足に力を入れるが、その度に体重をかけて男の足を抑え込んだ。
 そして数回のやりとりの後、しびれを切らした男が怒鳴り声をあげた。

「――っ、邪魔くせぇんだよ!」

 怒鳴り声と共に、振り上げられた男の左足が私の脇腹を思いきり蹴り上げる。
 鋭い痛みが腹部から全身へと広がっていく。
 痛みに驚いて一瞬緩みそうになった腕を、きつく締めなおす。
 今私にできることはこれだけだから、男の足を離すわけにはいかなかった。
 男は私が足を離さないのを見ると、二度三度と脇腹を蹴り上げる。

「っ!」

 痛みのせいで腕がしびれ徐々に力が入らなくなる。
 それでも足をつかめているのは多分、身体ではなく気持ちのおかげだ。
 いつまでたっても離れない私を見て、激高した男が今までよりずっと大きく振りかぶった足を、脇腹にたたきつけた。

「いい加減に、離せ!」

 痛みに負けて、気持ちだけで保っていた力が消えてしまう。
 私の意思に反して、私の腕は男の右足から離れてしまった。
 力が抜けたことに気づいた男は、私の両腕を振り払うと私の前に屈みこむ。

「随分手間取らせてくれたじゃねぇか」

 そういうと男は空いた手を私の顔の横まで運ぶ。
 次の瞬間、男が力任せに左耳を掴み思い切りねじり上げた。

「痛っ!」

 耳が引きちぎれるかと思うくらい、鋭い痛みが走る。
 感覚が鈍くなっていた身体と違い、顔はまだ十分痛みを感じることができた。

「耳ってのはいい場所にあるよな。頭に取ってみたいについててさ、片方が完全に固定されてるから、少ない力でひねるだけでくそ痛いんだよ」

 愉快そうに話す男の力は、言葉とは裏腹に一切の加減がない。
 ギリギリと、私の耳を表に裏に何度も何度もねじり上げる。
 邪魔されたのが相当癪だったのだろう、時間がないとわかっているのに男は私をいたぶって鬱憤を晴らしていた。

「ジャバラさん、急ぎましょう!」

「ちっ、わかってるよ!」

 男の憂さ晴らしを止めたのはバンに乗った手下の掛け声。
 男は舌打ちをすると最後の一撃とばかりに右足で私の顔を蹴り飛ばす。

「なんだかんだ、思いっきり蹴とばすのが一番スカッとするわ」

 焦っていたせいで狙いが定まらなかったのか、芯は外れていたものの、顔に強烈な痛みが広がる。
 男は捨て台詞を吐いて、今度こそ私の前から立ち去った。

(菜月……)

 追いすがろうとしても、力が入らない。
 菜月を助けたいということばかりに集中していて気に留めていなかったが、思った以上に私の身体はボロボロらしい。
 起き上がることは愚か、腕で身体を前に引きずることすらできない。
 どれだけ気持ちを奮い立たせても、もう動くことが出来なかった。
 最愛の娘がすぐ目の前にいるのに、さっきまでは手の届くところにいたのに。
 最後の最後で動けない自分の不甲斐なさに唇をかみしめる。
 口の中には生暖かい鉄さびのような味が広がっていく。
 舌を覆う不快な感覚を無視して、私はまだかろうじて動く右腕で、必死に辺りの床をまさぐる。

(まだ何か、何か!)

 すると震える指先に、ひんやりとしたガラスの感触が伝わる。
 手に握り確かめると、それは先ほど服のポケットにしまったはずの香水の瓶。
 何度も蹴られているうちにポケットから転がり落ちてしまったのだろう。
 私と菜月をつないでくれた思い出の香り。
 こんな無茶をしても壊れないでいてくれたボロボロの香水に感謝した。

(これが――今の私にできること!)

 私は残された力を振り絞って香水の瓶を思いきりバンに投げつける。
 瓶は奇麗な弧を描きながらバンの後方にあたると、甲高い音を立てながら砕け散った。
 少し甘さの混ざった淡い桜の香りが、車庫いっぱいに漂う。
 そしてその香りを消し飛ばすように、灰色のバンは排気ガスを振りまきながら走り出していった。
 強いニオイにかかれば一瞬でかき消されてしまう優しい香り。
 しかし、私は知っている。この優しい香りから始まった無謀とも思えた捜索作戦を。

(少しは役に立てたかしら)

 緊張の糸が途切れ意識がなくなりそうになる。だがそんな私の意識を懐かしい声が繋ぎとめた。

「――弥生さん! バッカ野郎、前に出るなって言ったじゃねぇか!」
 
 大和探偵はひどく辛そうな声とともに私の身体を抱き上げる。
 こんな細い腕で戦っていたのか。背中に当たる感触から、改めて大和探偵のたくましさと少女らしさを確認する。
 目を開ける余裕はすでになかった。
 薄れゆく意識を何とか保って、言葉を紡ぐ。

「ごめんなさい。私にも何かできるかもって、何かしなくちゃって思ったんだけど。結局、最後まで大和さんに頼らなきゃダメみたい」

「最後までって、それってどういう……っ!」

 目が見えなくても、大和探偵が鼻を動かしていることがわかる。
 流石探偵、言うまでもなく気づいてくれたようだ。
 大和探偵は私を優しく寝かせると、その場から立ち上がる。

「救急車は呼んでおいたから、あとは病院で待っててくれ」

「ありがとう。菜月を……お願いします」

 ちゃんと役に立てただろうか。
 そんな私の心配を察したのか、大和探偵が出会ったときと同じ明るい声で答えてくれた。

「あぁ、あとはこの”大和探偵”に任せてくれ」

 心の底から安心できる言葉を耳に残しながら、私の意識は深く沈んでいった。

 部下にバンの運転を任せながら、俺は後部座席でイラついていた。

「くっそ、なんでこんなすぐ嗅ぎつけられるんだよ。下っ端が捕まってすぐ薬の在庫は処分したんだぞ!」

 最近この辺りの不良グループが相次いで捕まっていると聞いていたこともあり、フォローは可能な限り早く行った。
 近くの高校をめぐり、次の稼ぎにあてもつけていた。

「あぁもう、くそ! やってらんねぇよ!」

 イラつきながら、後ろに積んだ意識のない女を一瞥する。
 貧乏なことに加え、親との不仲で不満がたまっていたらしい。
 甘い言葉と多少の金をちらつかせるだけでほいほいついてきた。
 どれだけ馬鹿でも若い女というのは、それだけで価値がある。
 予定外だったのはこの馬鹿が、馬鹿の癖に人並の倫理観を持ち合わせていたことだ。
 グループに参加しても薬はしない。
 何とか丸め込んで連れ出しても、商売の内容を説明すると「今すぐ帰る」とチキり始めた。

(馬鹿は身の丈に合った感覚で生きろってんだよ)

 俺はこんな馬鹿どもとは違う。何としても金を稼いで、もっと上の暮らしをしてやる。
 イラつきながら視線を前方にやると、ありえない光景が目に飛び込んだ。
 ――バックミラー越しに見える、一人のガキの姿。
 少しずつ距離を詰めるそのガキは車でもバイクでもなく自身の脚でこのバンに近づいてきていた。
 眉間に深いしわを作ったガキの表情からは、確かな怒りと明確な敵意を感じさせる。
 今追いつかれたら、何をされるかわかったもんじゃない。
 俺は運転席を蹴り上げて部下を怒鳴りつける。

「おい、見えてんだろ! もっと速度出せ! 裏道使ってまけ!」

 声に反応した部下が急ハンドルでわき道に入る。
 ありえない話だが、車が直線で追いつかれるなら、ひたすら道を変えるしかない。
 スマホで地図を確認しながら、何度も右左折を指示し、必死になってガキから姿をくらます。
 それでもミラーにちらつくガキの姿に躍起になって、また部下を怒鳴りつける。
 ようやくガキがミラーから消えたのは、初めてミラーを確認してから10分以上後だった。

「ふぅ、なんだよ驚かせやがって」

 ガキの姿がミラーに移らなくなってからすでに数回わき道に入った。
 サイドミラーを確認している部下の顔にも安堵の表情が浮かんでいるし、ゲーセンでガキを見た時から一時間弱、ようやく一息付けそうだ。

「まあ、さすがに走る車に追い付けるわけが――」

 ドスン、という音が上から響く。

(……嘘だろ?)

 頭の中を最悪の予想がよぎる。

 そしてその予想が外れていないことを、俺はすぐに理解することになる。

 バリンッという音と共にバンの窓ガラスが蹴破られ、まるで映画の特殊部隊みたいにクソみたいな現実が車の中に乗り込んできた。
 ガラス片が桜吹雪みたいに飛び散る中、獣みたいに鋭い歯を見せて、現実《クソガキ》がニヤリと笑う。

「手間をかけさせる獲物だぜ……けど、山ン中を駆け回るイノシシにゃ及ばねぇな」

 そいつは勢いを殺さずに左足を俺の顔の横――反対側のドアに叩きつける。
 下駄についていた土埃が頬にかかるのを感じる。それと同時に、下駄から焦げ付いた木のニオイが車内に漂っていく。
 逃げ場のない密閉空間で、俺は今まで感じたことない力で胸ぐらをつかまれる。

「さぁて――」

 バカみたいな力で、俺の顔はガキの顔すれすれまで引き寄せられる。
 恐怖で硬直した肉体が、勢い任せに無理やり動かされるのがわかる。
 ガキの顔はさっきバックミラーで見た時と変わらず、隠す気のない怒りと敵意で満ち溢れていた。

「――お縄につく前に少ぉし、仕置きの時間と行こうか」

 鋭い視線に全身が竦む。
 だが、俺はこんなところで終わる人間じゃない。

「うおぉぉぉ! 噛みちぎってやらぁぁぁぁ!」

 右手でガキの耳を思い切りねじり上げる。
 殴られたりするのとは違い、耳の痛みを逃がすことはほぼできない。
 化物みたいな身体能力だったとしても、強い力で思い切りねじれば多少は効果が――

「効かねぇな……」

 俺の希望もむなしく、ガキは表情一つ変えない。
 むしろ更に怒りを蓄え、拳を、バキバキと骨が鳴るくらい、握り固めた。

「こんな痛み、娘を奪われた母親の痛みに比べたら、大したことねぇんだよ!!」

 怒号と共に、俺の顔面に向かって放たれる、隕石みてぇに爆速の拳。
 確実に骨の砕けた音がして、視界が血でグシャグシャになり、意識が一瞬でブッ飛ぶ。
 血まみれの視界の中で最後に見えたのは、ガキの皮を被った一人の鬼の姿だ。

――第3幕へ続く