遅咲きの桜

第3幕
『遅咲きの桜』

 目を覚ました時、 私は病院の個室のベッドの上にいた。
 起き上がろうとすると、耳が焼けるみたいに痛んで、意識が途絶える前の出来事を思い出す。

「そうだ……私は、あの怖い男にやられて、そうして……」

 小ぎれいな病室には夕日が差し込んでいることから、随分と長い間、気を失っていたらしい。
 時間を確認しようと身体を動かそうとしてみたけれど、全身の痛みに負けて、すぐに楽な姿勢へともどしてしまう。
 丸一日以上眠らず、喧嘩までしたツケだろうか。
 年を重ねてから新しいことに挑戦するというのは、思った以上に身体に堪えた。
 その時――弱々しいノックが病室に響いた。

 誰だろう。看護婦さんだろうか。
 いや、違う。本当は、誰かなんてわかっている。
 今の私への客人なんて一人しかいない。
 胸の鼓動が早まるのを懸命にこらえ、声が上擦りそうなのを抑えつつ、扉の向こうの相手に語りかける。

「どうぞ」

 なるべく優しく、いつもと変わらない声を心がけた。大丈夫、母親歴はこう見えて15年もある。初心を思い出せば怖いことは何もない。
 声に反応して扉の向こうから、私のたった一人の娘――制服姿の菜月が現れる。
 一ヶ月ぶりに見るその制服は泥とほこりで薄汚れていて、普段はブラッシングの行き届いたショートヘアもクチャクチャ。
 私に似た細目も、今は腫れぼったい。
 この一日でどれほどヒドい目に遭ったかは、聞くまでもなかった。

「お母さん、私、その」

 目に涙をたくさんためながら、どこを見ればいいのかわからずに目を泳がせる娘。
 そう言えば昔から、悪いことをするとよくこんな表情をしていたっけ。
 自分よりもずっと緊張している娘を見て、不安なのは私だけじゃないのだと、私は少しだけ安心する。
 娘を安心させたくて、ずっと昔に菜月へそうしていたように、精いっぱい優しく語りかける。

「服、汚れちゃったね。帰ったら……お母さん、お洗濯しないと」

「……お母、さん」

 私と娘しかいない静かな病室で、娘が私の言葉を受けとめているのがわかる。
 一ヶ月ぶり――いや、それよりもずっと前から離れ続けていた距離をもっと埋めたい。
 その一心で、菜月のそばへと、もう一歩踏み込む。

「……菜月をずっと一人にして、お母さん、ごめんね。これからは、ちゃんと一緒にいましょう」

「お母、さん」

 一度思い切って口にしてしまえば、それはほんの数秒で相手に届く。
 大事なのは最初の一歩を踏み出せるかどうかなんだ。
 少しの沈黙の後、菜月は病院には似つかわしくない大きな声で答えた。

「お母さん、私の方こそごめんなさい、お母さん!」
 
 顔をグシャグシャにしながら目一杯の力で私に抱き着いてくる菜月。
 私の言葉はちゃんと一番届いてほしい人に届いてくれた。

 頬をたくさんの涙で濡らしながら抱き着いてくる菜月を、そっと抱きしめ返す。
 目じりから頬に温かい感触が伝うのを感じる。

 病室特有のアルコール臭に混ざって、私の鼻孔をくすぐる季節外れの桜の香り。
 一度は途切れかけた私と娘の絆を、“あの人”が繋ぎ直す道標となったものだ。

 ふと恩人のことが気になって、菜月を抱きしめながら、病室に例の彼女の痕跡を探った。
 ところが、病室をいくら探しも、それらしいものは見つからない。

「お母さん……どうかしたの?」

「ああ、ごめんね。実は、菜月を探すのを手伝ってくれた人がいたんだけど、お礼を言えてなくて」

「もしかして、このカードをお母さんに渡すよう言ってくれた子……かな」

 菜月が制服の懐から取り出したのは、一枚の花札。
 桜の上に「みよしの」と書かれた赤い札が書かれた絵柄だった。
 この赤札で、桜を引いたら自分を信じるんだという、大和探偵の話が思い出されて、つい笑ってしまう。

 ズルい。
 最初から桜の札を渡されてしまったら、自分を信じる他ないじゃないか。

「ふふ、自分を信じなさい、ってことね……大和探偵さん」

 菜月よりも若いのに、大人よりも強い探偵の姿を思い出す。
 もし彼女と出会えなかったら、今私は前を向いていなかったし、菜月と向き合うことはできていなかった。私たち家族の絆は、蕾のまま枯れていくはずだった。

 これからは大和探偵の言葉を胸に、母親として、守り続けていこうと思う。
 彼女が咲かせてくれた、この遅咲きの桜を。

 娘さんを病室の前まで案内したオレは、夕日の差し込む廊下を進み、早足で病院の受付まで戻る。
 看護婦さんに、急な病室の移動を引き受けてくれた礼を言わなきゃならない。
 ラッキーなことに受付はすいていて、難なくお目当ての看護婦さんを見つけることができた。

「あら、もういいの?」

 勘がいいのか、看護婦さんはすぐにオレに気づくと受付から出てきてくれた。

「いやぁ、すまねぇなぁ。他の患者がいない部屋をあてがってくれだなんて、無理言っちまってよぅ」

「いいのよ。弥生さんには昔面倒見てもらったしね」

 受付を通る患者さんに挨拶をしながら、看護婦さんが何の気なしに質問をしてくる。

「それよりも、あなたは行かなくていいの? 弥生さん喜ぶと思うわよ」

 もちろん、会いたくないわけじゃない。
 ただ、オレよりもピッタリの人がいるならオレはいかないほうがいい。

「ここでオレが行くのは無粋ってもんだ」
 
 せっかく弥生さんが向き合うって決めたんだから、オレのお節介はもう終わったんだ。
 そう実感すると同時に、オレはなんとなく自分はこの場所にいちゃいけない気がして、看護婦さんに別れを告げた。
「いつでも来てね」といわれたが、もう来ることはないと思う。
 街でもそこそこ大きな病院なのか、この場所を歩いているといろんな関係の人たちが目に入った。
 夫婦、友達、恋人あとは――親子。

(母親か)

 母親の顔も覚えてねぇオレにはわからない。
 だから、今日弥生さんの背中を押すために言った言葉が合っていたかどうかも、正直わからないんだ。
 結果的に弥生さんと菜月さんが仲直りできたのであれば、それで良かったけどな。

(それでいいよな)

 そんな家庭的な光景から逃げ出すように病院の外へと出た。
 敷地外へと続く茜色の並木道の途中で、オレはポケットにしまっていた電子端末を取りだす。
 なんとなく、美食の姐さんの声が聞きたくなったからだ。

「……やめだ」

 かける理由が思いあたらなくて、オレは端末をポケットにしまう。
 もしかしたら美食の姐さんも仕事中かもしれねぇ。あの人の迷惑になるのは嫌だ。
 ……菜月さんもこんな気持ちで、何も言わずに家を出たのかもしれない。
 さっさと帰ろう。
 そう思ってオレが歩き始めようとしたとき、たった今ポケットにしまった端末から、ピリリリと着信音が鳴った。
 突然の着信に驚きながら、慌てて端末を取り出す。画面には『美食探偵』という文字が浮かんでいた。

「姐さんはすげぇな」

 初めて会った時から、姐さんには敵わない。
 画面に映る通話ボタンに触れてから、端末を耳元に持っていく。
 するとオレがしゃべるよりも先に、電話の向こうから聞きなれた声がオレの名を呼んだ。

「―――?」
「急にどうしたんだよ、姐さん! いや、別に文句があるってわけじゃねぇけどさ――」

 夕暮れ時の病院の廊下に、上ずったオレの声が良く響く。
 オレの妙な様子に気づいたらしい姐さんは、意地悪な声でオレに問いかけてくる。

「―――――? ―――、―――――!」
「声が変ってそれはその……今病院にいるからよ、ちょっと遠慮してんだよ」

 ちょっとしたやり取りが嬉しくて、端末を握る手に力がこもる。
 オレはバカだから難しいことはわからない。
 だけど、この声がオレを安心させてくれることはわかる。

「だから、違うってんだろ! あんまりからかわないでくれよー!」

 沢山の人が誰かの元へ足を運ぶ夕暮れの病院の敷地内に、この場所には似つかわしくない、オレの声が木霊していった。

――本編『探偵撲滅』へと続く。