文学探偵と阿呆の匣
第2幕
~一条家の歪~
周囲が静まり返る中、文学探偵は箱の中身――中央に大きな人型が一体、周囲に鳥頭の人型が九体集まった様子を指差して語り出す。「『そもそもこの箱の中身は、十人の人間を表すものではありません。一人の人間と、九体の河童を表すものだったのですよ』と、少女は解説の口火を切った」
「芥川の『河童』か」
オウガがハッとしたような声をあげた。
「河童って、あの妖怪の河童?」
「いや、芥川龍之介が晩年に書いた短編小説のことだ」
奈々菜の問いかけに対して、オウガは丁寧に解説していく。
「精神病院に入院する患者が語った話という体で、河童たちが住む国を訪れた男の話が描かれている。河童の社会を通し、人間社会を痛烈に皮肉った名作だ」
「へえ、でもこの鳥頭は妖怪の河童みたいに、甲羅を背負ってないよね? 何で河童だって言い切れるの?」
「オレ様も言われるまで気付かなかったが、クチバシがないものは途中でクチバシが腐り落ちたラップを。白衣を来たものは医者のチャックを、と。『河童』の作中に登場する河童たちの特徴を表しているからだ」
「『六条オウガさんの言う通りです。ならば、中央に位置する一際大きな人型が何を表すかは、自然と導き出せるでしょう』と、少女は周囲の者たちに暗号の推理を促す」
オウガにそっと耳打ちされ、奈々菜が箱に近づき、パネルに入力を始める。
よくも悪くも目立つオウガではなく奈々菜が箱に近づいたことで、他の者たちは反応が遅れた。
暁星が止めに入ろうとした時には、既に手遅れ。
カチッと音が鳴り、箱の下の面から、一枚の黒い円盤が飛び出す。
「な、何だ、この円盤は!? おい、奈々菜! テメー、何を入力しやがった!」
「――23。『河童』の主人公が、入院中の精神病院で呼ばれている番号だ」
暁星の問いかけに答えつつ、オウガが箱から出てきた円盤を手に取った。
「中央に作られた人型は、河童たちを認識する者のメタファーだろう。ならば、その人型に入力すべき数字は、作中で河童たちを視認する唯一の存在、主人公の呼び名だと考えられる」
「でもさー、何かズルくない? 阿呆匣って名前なのに、『河童』が元ネタなんて」
「『阿呆の言葉、という作品が作中で出てくるのですよ。箱の名前を素直に受け止めた人が間違えるよう、名前の時点で罠を設けていたのでしょう』と、少女が疑問に回答する」
里海の子どもらしい不平に、文学探偵が即答した。
「『匣の名前やシチュエーション、十人という人型の数。それら全てがミスリードを招くよう、意図的に設定されています……ですから私は、見落としがないよう、芥川龍之介の全作品を読み返していたのです』と、少女が熟考の理由を口にする」
「読み返していたって……さっき見た時、文学ちゃんは目をつぶっていただけだったけど」
不思議そうに問いかけた奈々菜に対して、文学探偵は自分のこめかみを指でトントンと叩いてみせる。
「『私は一度読んだ本の内容を忘れませんから。集中すれば、頭の中で読書することが可能なのですよ』」
「な、何それ、スゴ……」
「『読了に思わぬ時間がかかり、不要な怪我人を出してしまったことは謝ります』と、少女は素直に、深々と頭を下げた」
真剣な面持ちで深く頭を下げた文学探偵。
その様子はとても、冗談を言っているようには見えない。
一度読んだ本を完全に記憶し、脳内で読み直すとは、何とも超人的な能力だ。
「完全記憶デスか。そう言えば、そのような疾患を聞いたことがありマスねー」
「どうでもいいだろ、そんなこと! それより今は、その黒い円盤についてだ!」
暁星がシビレを切らして、オウガに詰め寄っていく。
「何なんだよ、あの黒いのは! 暗号の場所でも書かれてるのかよ!」
「いや、中央のラベルが霞んでいて読みづらいが、これはヴェルディの『レクイエム』のレコードだ」
「あん? エクレア? 意味不明なこと言ってんじゃねえぞ!」
「暁星、せっかちはノンノンデスよ? ヴェルディの『レクイエム』と言ったら、誰だって一度は聴いたことがある有名な楽曲デース」
「オウガお兄ちゃん、阿呆匣の下の部分が、レコードプレーヤーになってるみたいだよ。再生してみようよ」
里海に言われてオウガが確認すると、先ほどレコードが出てきた箇所がそのままディスクの挿入口に、その上の多数の人型が操作ボタンとなっているようであった。
暗号を解くと同時に、機能が解放される仕掛けだったのだろう。
「オウガ、再生できそう? 何かの仕掛けで腕輪から毒針が飛び出したらいけないし、私が操作しようか?」
「いや、操作が複雑だからオレ様が受け持とう。こんな奇妙なプレーヤーを見るのは初めてで、メンテナンスの勝手が分からんが……取り敢えず入れてみるぞ」
オウガが両手ですくうようにレコードを手にし、そっと挿入口へ入れ、人型のボタンを手探りで操作していく。
すると、阿呆匣から『レクイエム』の演奏と共に、しわがれた男性の肉声が流れ始めた。
「――五十一の一生のうちに、我は在り。
光明求むるなら、鎮魂歌が途絶え、
毒蛇に噛まるる前に、四十一の病を奏でよ。
序曲終わりし頃、道は開かれむ。
さもなくば我に続け。河の底にて龍が待つ」
「これって、龍我おじいちゃんの声!? まだ暗号は続くってこと!?」
「この、音は……」
暗いレクイエムの旋律が流れ出す中、再び室内に不穏な空気が満ち始めていた。
◆
レクイエムが流れ始めてから5分が経った。阿呆匣のそばに立つ『十條』の一族は、オウガと奈々菜、そして真百合の三名しか残っていない。
共に暗号の音声を聞いたロイヤルと里海、暁星の三名は円卓の部屋をあとにし、別の部屋へと手がかりを探しに向かっている。
この一条家の屋敷の各部屋には、一から五十一までの番号が振られており、四十一番の部屋は音楽室。
阿呆匣から流れた暗号は「音楽室で何か楽曲を弾け」という意味だと、里海が推理したからだ。
「ねぇ、オウガ。暁星を放っておいていいの? ロイヤルや里海を襲うんじゃ……」
「あの男は目先の利益に走りがちなバカだが、外道ではない。女子どもには手を出さないであろう。それよりも、オレ様たちが守るべきは彼女だ」
オウガと奈々菜は、円卓に一人座る文学探偵を見やった。
文学探偵は再び目を閉じて、集中を始めてから数分。
言葉ひとつ発さずに集中を続けている。
また先ほどと同じように、暗号を読み解こうとしているに違いない。
「オレ様たちが下手に動いて犠牲者を出しては、先ほどの二の舞だ。文学探偵を信頼して待っている方がよいだろう」
「そうね……文学ちゃんならきっと、私たち『十條』の間に生じた歪みを、取り払ってくれるはずだわ」
「あとは時間との勝負だな」
「光明求むるなら、鎮魂歌が途絶え、毒蛇に噛まるる前に……って部分でしょ? まさか、曲が終わると同時に、私たち全員毒針に刺されるってワケじゃないわよね?」
「……さぁな。だが、あの傲慢なジイさんなら、十分にありえる話だ」
オウガは自らの名付け親が龍我であることを思い出す。
曰く、若い頃の自分に似ていると感じたがために、自身の名前の一部を冠させたそうだ。
親戚の名付けにまで平気で口を出す男。
それがオウガにとっての、一条龍我という人間。
たとえ孫や親戚が相手であったとしても、自分の暗号を時間内に解けなければ、平気で全滅させたところで不思議ではない。
「……真百合、お前は祖父の遺した暗号の意図を、初めから理解していたのではないか?」
「え、オウガ、それってどういう意味?」
奈々菜が困惑する中、オウガは真百合と向き合って語る。
「暗号の最後……さもなくば我に続け。河の底にて龍が待つ。龍とは文字通り、一条龍我。河の底とは、モチーフから考えるに、入水自殺の暗喩だろう」
「ちょ、ちょっと待ってよ。それじゃあ龍我おじいちゃんがまるで――」
「ああ。『自分に続いて死ね』と言っているようなものだな」
手首の腕輪をさすりながら語るオウガ。
表情こそ平然としているが、そのこめかみには、青筋が浮かんでいる。
「……芥川龍之介の死後には、彼の死を悲しんで多くの後追い自殺が出たらしい。龍我祖父は芥川に己を重ね、若い世代が自分に続いて死ぬよう、この遺言を遺したのかもしれんな」
「何、それ。真百合さん、本当なの? 龍我おじいちゃんは私たちを道連れにするために、こんな奇妙な遺言を?」
「分から、ない」
真百合が俯き、力なく答えた。
その顔は、これまでと変わらず無感情ながら、弱々しく、幼気に見える。
「私たち一条家は、遺言の真意など知りません。ただ、お祖父さまが遺してくれた最期の言葉に、従うのみです」
「何だ、それは。貴様らに信念はないのか? 今この部屋に広がる惨状を目の当たりにしても、何も思わないのか!」
オウガが手を拡げ、毒針のせいで床に伏した者たちへと視線を促す。
キャラ付けのために、無理して侍風の衣装をまとう神威。
外食産業の不景気で気が逸り、真っ先に倒れた勝悟。
幼い頃からクマクマ建託の看板娘として活躍してきたハナ。
出生時に双子の弟『般若』が死に、二人分の幸運を持って生まれたと自負する閻魔。
倒れた者たちは皆、それぞれの事情を抱え、毒針を受ける覚悟で暗号に挑んでいった。
同じ円卓に座ってきたオウガたちは、彼らの事情をよく知っている。
無感情に見捨てられるはずがない。
「真百合、素直になれ。お前だって本心では、このような暗号の解読などやめて、治療に専念したいはずだ」
「邪推はやめてください。私たち一条家は、これまでずっとお祖父さまの指示に従って生きてきました。お祖父さまの命令がなくては、生きてなどいけません」
「もう、龍我祖父はいないぞ?」
「分かっています……だからこそ、せめて遺言はまっとうする……まっとうする以外の選択肢など、思い浮かばないのですよ」
感情こそこもっていないものの、それは真百合の口から出た本心の言葉に思えた。
ずっと指示の元に育ってきた人間が、いざ指示者がいなくなった場合にどうなるか――。
そんな実験結果でも見せられているようだ。
ずっと指示に従ってきた者が指示者を失ってしまうと、意志を失うのも当然かもしれない。
「権力を集中させた弊害……か。オレ様たち六条家も、以前は同じようなものだったな」
オウガが呆れたように溜め息を漏らした。
「全ての実権を握っていた父が亡くなって以来、随分と迷走が続いた……いや、未だに迷走の渦中にいるやもしれん」
「今の学園に入る前のオウガは、女性をみんな見下してたもんね」
同じ学園に通う奈々菜に茶化され、素直に苦笑するオウガ。
彼自身も以前は横暴な性格で、今の柔軟な性格に至るまでに、数々の事件があった。
だからこそ今、自信を持って言える。
「芥川のあとを追って自死した者たち然り、祖父の言葉に支配されていた一条家しかり、一人の考えに、ひとつの考えに縛られるなど、あってはならないことだ。それこそ、自身で何も考えていない『阿呆』のやることだろう」
「言ってくれますね。あなただって……文学探偵に推理をまかせているではないですか」
初めて感情のこもった声で、真百合が反論した。
「私たち一条家は、自分たちより優れた祖父の言葉に支えられてきたのです。優れたヒトにすがっている点では、あなたも一緒でしょう? 何が違うと言うんですか?」
「全然違うわ」
オウガの隣に奈々菜が並び立って、共に真百合と向かい合う。
「オウガに探偵同盟への依頼を持ちかけたのは私なの。探偵同盟には、以前に命を救われたことがあって、今回も力になってくれると思ったからね」
「立場の悪い七条家が外部の者を呼ぶと角が立つから、とな。故に、オレ様が矢面に立つことにしたのだ。ただし、暗号を押す役割など、リスクのある行動は奈々菜に肩代わりしてもらう」
オウガが探偵同盟に依頼し、奈々菜は彼の行動を陰ながらサポートに徹する――。
二人は初めから、協力関係を築いた状態で、この会議に臨んでいたのだ。
すべては、この不毛な埋蔵金騒動を収束させるために。
「自分に自信がない真百合さんの気持ち、スゴく分かるよ。私もある事件に巻き込まれるまでは、ただ流されて生きてきた。でも、それじゃあいけないって……自分の行動は、自分の意志で選ばなきゃダメだって気付いたの」
「奈々菜も、オレ様も、リスクを覚悟の上で、自分の命運を探偵同盟に託した。一条家は……真百合はどうなんだ? 龍我祖父が亡くなったあとのリスクも承知の上で、これまで彼の言葉に従ってきたのか?」
「私、は……」
真百合が茫然自失とした様子で黙り込む。
何も言葉を返せずに、ただ立ち尽くすばかり。
その様子は、これまでの毅然とした様子と異なり、酷く弱々しく見えた。
そこで阿呆匣から流れる『レクイエム』が、第2曲へと移り変わった。
曲名は『怒りの日』。
学生同士の殺し合いの映画で使用されたことでも知られる、ヴェルディの『レクイエム』の中で最も有名な旋律だ。
その壮大ながら、どこか悲劇を想起させる旋律は、オウガたちの不安を煽るかのようであった。
「チッ……第2曲に入ったか。この暗号に時間制限があるとしたら、もうあまり時間がないな」
「え? さっきネットでヴェルディの『レクイエム』について調べたけど、1時間半くらいの曲なんでしょ? 曲が『途切れる』までには、まだ時間があるんじゃ……」
「あのレコードの規格では、20分弱しか曲が入らんのだ。つまり、あと10分もしないうちに曲は途切れる。もし、そのタイミングで全員の毒針が飛び出るとしたら……」
あと10分弱で全滅するかもしれない。
ここまで冷静さを保ってきたオウガの顔に、初めて冷や汗が浮かぶ。
毒の痛みを恐れないオウガの懸念は、時間切れによって、埋蔵金を得る機会が失われる可能性であった。
今日の会議で図らずも、昨今の『八ツ裂き公事件』の影響による、それぞれの家の苦境が伺い知れた。
『十條』内は、毒針のリスクも承知で暗号の解読に挑む者ばかり。
もし埋蔵金を相続する機会を失えば、各家の存続を巡って、より大きな問題へと発展するだろう。
そうなれば『十條』グループ全体の危機。
故に、何としてでも今日この場で暗号を解読しなければならない。
そんな使命感がオウガの心を逸らせていく。
「『読了です』と言って、少女は頭の中で開いていた本を閉じた」
――そこで救世主が口を開いた。
――第3幕へ続く