後日談の明けぬ夜

【前編】
『私の人生は後日談』

 死へと続く地下鉄の入り口に足を踏み出す直前、ふと空を見上げた。

 雲ひとつない青空の中心で、煌々と輝く太陽。
 今まで何度となく見てきたその光景が、今日は一際美しく見える。
 それはきっと、このまま地下へ降りてしまえば、もう二度と見えなくなるからかもしれない。

「……バイバイ」

 短くない期間を過ごした街に別れを告げ、地下鉄へと降りていく。

 一段一段階段を慎重に降りる途中、右手に持った無地の紙袋が中身の重みでユラユラと揺れるのを、傘を手にした左手でそっと支えた。

 そう簡単に中身は漏れ出さないだろうけど、無警戒でいられるワケもない。
 なんせ下手に漏れ出せば、周囲もろとも私だって命を落とすのだから――。

 何か大きな事件が起きた時、盛り上がるのは解決するまでだと思い知ったのは、中学への進学を控えた頃だった。

 ある日、学校から帰ると自宅アパートの前に大量の報道関係者がいて、彼らと目が合った途端、私はあっという間に取り囲まれてしまった。

 話を聞くと、当時世間を賑わせていた大規模テロに、昔私たち家族を捨てて蒸発した父親が関わっていたそうだ。

 父の顔も知らない私は困惑し、何も答えることなどできない。しかし、そんな私の態度をマスコミたちはこぞって「何かを隠しているのでは?」と責め立て、映像を全国放送のニュース番組でも取り上げた。本当に何も知らないだけなのに、マスメディアはまるで父親をかばっているようだと報道して、さも犯罪者扱い。自分の知らないところで、真実が捏造されていく。

 その日からはまさしく地獄だった。
 周囲の大人たちが私を腫れ物のように扱い、その空気を子どもたちも察して、私にツラく当たる。その連鎖は日に日に激しさを増していき、筆舌に尽くしがたい仕打ちもたくさん受けてきた。

 でも私は、文句ひとつ言わずに耐え続けた。
 だって報道によると、父の加担した事件の死者はゆうに三桁を超える。

 身内がそれだけの命を奪ったというのに、娘の私がのうのうと生きるワケにはいかない。みんなが私にツラく当たるのも当然。私は周囲の仕打ちを受け入れて当たり前。そう思って、耐えて耐えて、耐えて耐えて耐えて、真面目に、慎ましく、精いっぱい生きてきた。

 警察のお世話になるような不良行為は一度だってしたことがない。
 お天道様に胸を張って、自分は清く正しい人間だと言える。
 善人であり続けたはずだ。

 それでも一向に、周囲からの評価は変わらなかった。
 不良生徒のことは面倒を看る先生だって、私には声もかけない。私と同じシングルマザーの家庭に優しい地元の商店街も、私にだけ冷たい目を向ける。優しいと評判の近所の老夫婦すら、私が近くを通ると、視界に入らないフリをするほどだ。

 心労で倒れた母が、病院から受け入れ拒否をされ、自宅の布団で療養するようになった時、私の中で徐々に、世界への憎悪が募り始めた。

 ――私たちが何をしたんだよ。私たちだって父の被害者だ。そもそも『明けぬ夜事件』の被害者でもないヒトまで怒り狂うのはどうして? 何かを失ったのか? 私たちからささやかな幸せを奪うほど、嘆き苦しんだというのか? 私たち母娘を批判できるほど、アンタたちは立派な人間なのかよ!!!

 言いたいことはたくさんある。
 でも吐き出せる場なんてないし、終わった事件の後日談になんて、誰も興味は示さない。

 だから、母が病死した夜に自宅を訪れた黒スーツの男性からこう誘われた時、心が揺らいだ。

 ――周囲がテロリスト扱いするなら、本当にテロ事件を引き起こしてみませんか?

 その恐ろしい提案を受け入れることにしたんだ。

 ――地下鉄に揺られながら、長椅子《ロングシート》に座って一人、今までの人生を振り返っていた。

 嫌なことばかりの人生でも、死を目前にすれば自然と、感傷に浸ってしまうのだと思い知る。

 これから大量殺戮をしようというのに、身勝手な自覚はある。
 でも、あと20分もすれば目的地の駅へと着いて、私の人生は幕引きなのだから、多少感傷に浸るくらいは許されるはずだ。
 都心に着くまでの間、もう少しだけ、穏やかな心地でいたかった。

 電車内を眺めてみると、“組織”の読み通り、ほとんどヒトを見かけない。
 車両の壁面に沿って設置された長椅子《ロングシート》にも、私以外に座る客は皆無。
 人の出入りが少ない駅では警戒が甘くなる点を突き、私の地元のローカル駅から都心へと向かうという計画は、半ば成功している。

 私は嫌われ者でも、今まで犯罪の前科はないし、警察も無警戒のはず。服装はビジネススーツ。怪しまれないよう、髪型もちゃんと整えてきた。自分で言うのもなんだけど、犯罪を起こすような外見ではない。
 計画を阻止できる者など誰もいないだろう。

「やぁ。隣、座っていいかな?」

「――え?」

 不意打ちで話しかけられて、声のした方を向く。
 いつの間にか、私のすぐそばに髪の白い女性が立っていた。

 白と黒の生地に金色の刺繍がなされた、ノーブルでかつフォーマルな見た目のドレスに身を包み、腰まで伸びた白い髪が一層優雅な雰囲気を醸し出している。
 ツリ上がった鋭い目の中心で輝く瞳は、まるで紫陽花のような色で、見ていると吸い込まれてしまいそうだ。

 でもよく見れば、女性の顔立ちにはまだ幼さが残っていた。
 浮世離れした外見ではあるものの、恐らく目の前の女性――いや少女は、高校生ぐらいの年齢に見えた。高く見積もっても、18は超えないはず。

 二十数年の人生の中で見てきた中で間違いなく、最も美しい少女だった。

「ダメかな? 隣」

「え、あ、い、いえ! どどど、どうぞ!」

 年下相手であろうに、つい敬語になってしまった。
 私以外の客などいないにも関わらず、少女は私の隣へと座る。

 段々と冷静になるに従って、隣の少女のおかしさに警戒を強めていく。

 犯行の直前に、常人離れした少女が現れ、わざわざ私の隣へと座るなど不自然だ。
 偶然で片付けられない。まず間違いなく、私の敵だろう。

(……まさか、この子、私の計画に気付いている?)

 足元の紙袋の位置を、目立たないようにそっと少女から離した。

 もし仮に私を警戒していたとしても、まだ始めてもいない犯罪に証拠などない。
 紙袋の中身さえ見られなければ、いくらでも言い逃れできる。
 どのような行動に出るか警戒すべく、横目で少女の様子を伺った。

「そう警戒しないでくれ、毒ヶ森松子《ぶすがもり まつこ》くん。不毛な駆け引きなどする気はないよ」

 いきなり本名で呼ばれた。

 もう悩むまでもない。
 間違いなく、目の前の少女は私に何らかの疑いを持って、アプローチをかけてきている。

 何としても、紙袋を奪われることだけは避けなくては。

「ふふ、後生大事に紙袋を扱っているな。よほど大切なモノでも入っているのか?」

「ただの書類ですよ。何なんですか、あなたは一体?」

「すまない、申し遅れたな。私は理想探偵。『探偵同盟』という組織に属する探偵だ」

「理想、探偵……」

 その名前には聞き覚えがあった。
 あくまでネット上のウワサでしかないけれど、ここ数年、大きな事件が未然に防がれた際には決まって『理想探偵』という名前を聞いたヒトが出るらしい。

 まるでヒーローのようなその存在は、彼女が所属する『探偵同盟』という組織の名と一緒に、ネット上でフォークロアのように広まっている。

「その探偵さんが、何の用ですか?」

 ペースを握られないよう、こちらから問い掛けた。

 最優先は相手の目的を知ること。
 このまま相手のペースで話を進められるのは、避けなくてはならない。
 そんな私の心中を知ってか知らずか、自称・理想探偵の少女はさらりと告げる。

「いや、何。キミが恐らく、毒薬を使ったテロの片棒をかつごうとしているだろうと予想して、先回りしていただけさ」

「ハ、ハァ?」

 ――何で知っているの!?
 何とか平然と返すことができたけれど、内心胸はバクバク。

 表情を取り繕うので精いっぱいだった。

「突然こんなことを言われれば困惑するのは当然だな。安心してくれ。警察への情報提供はまだだし、『探偵同盟』も私以外のメンバーは動いていない。私の独断専行だ」

「私を疑う根拠でも、あるんですか?」

 必死に平静を保ちつつ、そう訊ねかけた。
 言っていることは意味不明だけど、理想探偵を名乗るこの少女以外に、私を疑っているヒトがいないことだけは分かった。
 この理想探偵を名乗る少女の言葉を信じるなら、まだ致命的な状況ではない。

「確たる根拠はないよ」

「なら、どこかへ行ってください。あなたと話すことなんて、何もありません」

「手厳しいな。私はただ、キミの目的地に着くまでの20分間、話し合いの時間が欲しいだけなんだが」

「ど、どうして目的地が新宿って……!?」

 口に出してすぐに自らの口を手で塞ぐ。

 しまった。
 ただのカマかけだったかもしれないのに、目的地を言ってしまうなんて最悪だ。
 警察でも呼ばれて先回りされれば、一巻の終わりじゃないか。

「大したことではない。キミの元に化学兵器が手配され、過去の事件の手法をなぞるとすれば、この路線で最も経済が発展した駅で犯行を行うのが効果的だろう?」

「あなた、どこまで私のことを……」

「私ばかりに話をさせるのはフェアじゃない。少しはキミ自身のことも話したらどうだ?」

 理想探偵は腕を組んで余裕の笑みをたたえたまま、仲間や警察へ連絡を取る素振りも見せない。

 余裕の表れなのか。それとも、ただのアホなのか。
 目の前の少女が何を考えているのか分からない。

「さっきから煙に巻くような発言ばかり。根拠もない推測に、応える義理はありませんね」

「そうか。ならば、段階を踏んで話していこうか」

 理想探偵が真っ直ぐに私と目を合わせる。
 その目は宝石のようにキレイなのに、年下の少女とは思えないほど鋭く、力強い。

 私は、蛇に睨まれた蛙みたいに、ピクリとも動けなくなった。

「キミも、自分の父親が加担していた『明けぬ夜事件』については知っているだろう? とある新興宗教団体が、大地震に乗じて都心の地下鉄で化学兵器によるテロを決行。しかし、その計画を察知していた警察が対処し、被害を最小限に留めることができた」

「ええ、知っていますとも。父が犯してきた罪のせいで、残された私たち家族も随分と苦労してきましたから」

「だろうな。キミの父親、毒ヶ森英堂《ぶすがもり えいどう》は事件で用いられた化学兵器の開発者だ。彼は化学兵器の開発に当たって、多くの罪なき人間を実験材料にしたとされている。世間からのバッシングも強くて当然だろう」

 理想探偵の話を聞いているだけで、嫌な記憶が思い返され、ドス黒い感情が湧き上がっていく。

 本当に最低の父親だ。
 聞けば聞くほど、死刑になって当然の人物だと思う。
 だからこそ、私もこれまで、周囲からの仕打ちに耐え続けてきた。

 だけど、これ以上は、もう耐えきれない――。

「……父親が罪人だから、疑ったというワケですか。探偵とか言っても、根本は無責任なマスコミと変わりませんね」

「早合点するな。父親は父親、キミはキミだろう? 父親を理由に疑うなど愚の骨頂だ」

「なら何故、私を疑ったんですか?」

 こらえ切れない感情が声になって溢れ出した。
 一度言葉にしてしまうと、もう止まらない。

「私はこれまで真面目に生きてきました。父親以外のことで、誰かに疑われる要素はないはずです。いつもいつも、いつもいつもいつも……! 私の人生は父のせいで台無しになってきたんですよ!」

 堰を切ったように次々と溢れ出す父親への恨み。

「私が何をしたって言うんですか……!? 父以外の点で私を疑った理由があるなら教えてください! 私の何が悪かったのか、教えてくださいよ!」

 これは、ただの八つ当たりだ。
 今まで溜め込んできた感情を、目の前の少女にぶつけているだけ。

 そんなことは分かっている。
 分かっているけど、止められない。
 十年以上も苦しみ続けてきた想いが、全部口から溢れ出していく。

「どうして父親が犯した罪を、私が背負いを続けていかないといけないんですか!?!!」

 私と理想探偵しかいない地下鉄の車両に、私の絶叫が反響する。

 理想探偵は何も言わず、ただじっと私を見つめ続けていた。
 それから、私が全ての言葉を言い切ったのを確認したように、ようやく口を開く。

「毒ヶ森松子くん。キミが如何に苦しんできたかは、よく分かった。しかし、キミはひとつ大きな誤解をしている」

「誤解、って……?」

 私にそっと微笑を返すと、理想探偵は懐から折り畳まれた一枚の紙を取り出した。
 理想探偵がその紙を開くと、中には意味不明な文字列が並んでいて、内容は読み取れない。

 ただ、最後だけは普通の日本語で、ハッキリと読み取れた。
 ――毒ヶ森英堂、と。

「それは、父の……?」

「ああ。キミの父から探偵同盟に届けられた手紙だ。盗み見られても平気とするためか、少々難解な暗号になっていたが、中身は読み取れた。だから今、私はキミの前にいる」

「ハァ? 何で私に繋がるんです?」

 言っている意味が分からず、問い返してしまった。
 暗号を解いたことが、何で私を疑う結果に繋がるというのか。

 私が首をかしげたのを見て、理想探偵は表情に影を落とし、言葉を続ける。

「手紙にこう書かれていたからさ。娘が狙われている。助けてくれ、とな」

「え……?」

 思いもしなかった言葉を聞き、私の頭の中は真っ白となった。

 ――後編へ続く