後日談の明けぬ夜

【後編】
『悲劇の結末は、』

 物心がついた頃から、父は研究とやらに没頭してばかりで、自宅に一度も帰ってこなかった。

 私は安い市営住宅で母と二人暮らし。
 他の家族みたいに、休日に父に連れられて遠出した、なんて記憶もない。
 中古のゲームで遊んだり、父の蔵書を読み漁ったりするくらいしか娯楽がなくて、流行りの話題にも当然乗れない。

 私にとっての父は、テレビで観る芸能人よりも、ゲームの中のキャラクターよりも、ずっと非現実的な存在だった。

 でも印象深かったことがひとつある。
 それは、父を語る時の母は、とても幸せそうな顔をしていたことだ。
 父が凶悪犯として指名手配され、逮捕されたあとでも、母が父を悪く言うことは一度もなかった。

 肺の病気を患ったのに通院する余裕もなく、自宅の布団で弱っていく中でも、「父には何か事情があったはずだ」と、「今でも私たちを愛しているはずだ」と、頑なに信じ続けていた。

 私の目には、そんな母がとても愚かに映った。
 父に洗脳された可哀想なヒトだって、ずっと思っていた。
 そう思う以外に――父を恨む以外に、私には生きる術がなかった。

「――どうした、毒ヶ森松子くん。私の言葉は、届いているか?」

 それなのに今、すぐ隣に座る白髪の少女は、父が私を守るよう依頼してきたなどとのたまっている。
 とんだお笑いだ。信じられるワケがない。

「聞こえていますよ、理想探偵さん。父が私を守るよう、あなたに依頼したと、そう言いましたね」

「ああ、そう言ったとも。だからこそ、私はキミの凶行に気付くことができたんだ」

「どういう意味ですか?」

「注意深く見ていれば、キミの行動には不自然な点が多数あることだよ」

 語りつつ、理想探偵が私の足元の紙袋を指差した。

「無地の紙袋を購入し持ち歩くことなど、滅多にあることじゃない。何か大型のものを購入して自宅へ持ち帰る予定があれば別だが、キミの素性を調べた限り、紙袋が必要な何かを購入する趣味を持っているワケでもない」

「そんなの……分からないじゃないですか。確たる証拠がないのに、憶測で疑い過ぎでは?」

「分からないからこそ警戒するんだよ。キミの父が作った化学兵器は、紙袋に入れて持ち運び、中身に穴を開け、毒ガスを発生させる仕組みだ。この状況でキミが紙袋を持ち歩けば、警戒して当然だろう」

 完全に中身を言い当てられ、返答に窮してしまう。
 理想探偵の言う通り、この紙袋の中身は化学兵器――合成を避けるよう分けた状態でビニールにパック詰めした、薬品のセットだ。

 中身のパックに穴を開ければ、薬品が合成され、毒ガスが蔓延する。
 毒ガスの発生に成功すれば、電車の車両内はもちろんのこと、車両の止まった駅の構内も、深刻な被害は避けられない。
 私自身が進めている計画ながら、許されざる凶悪さだと思う。

「キミの犯行を察知した理由は紙袋だけでなく、その傘もだよ。今日は地下鉄へ降りる前にキミがしてみせたように、ついつい空を見上げたくなるほどの快晴……日傘でもないなら傘を持ち歩く理由がない」

「……心配性な、だけですよ」

「そうか。なら、傘の先端を研磨して尖らせるのはやめた方がいい。ビニールの袋だけでなく、人間の身体にだって刺さりそうだからな」

 傘が、紙袋の中身に穴を開けるための道具であることも見抜かれていたようだ。

 何から何まで見抜かれてしまっている。
 人間離れした洞察力と、有無を言わさない雰囲気。
 目の前の少女が、過去にも多くの事件を未然に防いできたというウワサは、真実なのだろう。

 だけど、それでも私は、計画を止めるワケにはいかない。
 いや、止める理由がないんだ。

「流石は探偵さんですね。紙袋の中身も、傘を持ち歩く理由も不正解ですけど、その想像力の豊かさには感服します」

「キミは、死ぬのを止めない気か?」

「さぁ、どうでしょう。ただ少なくとも、私がこの先で生きていても意味がないことは事実です。だって私の人生は……父が引き起こした悲劇の、後日談に過ぎないのだから」

 どうせ最期だから――と、自然と本心が口から溢れ出る。

 目的地の駅に到着するまで残り10分もない。
 少女が何を言おうと、何をしようと、私の手の傘を紙袋に突き立てれば、全て終わりだ。

 死ぬ前に今まで溜め込んだモヤモヤを吐き出したい、この少女にぶつけたいと、そう思わずにいられなかった。

「みんな悲劇には目を向けるんですよ。悲劇の被害者たちにはみんな同情するし、悲劇を引き起こした犯人は殺さんばかりに憎悪する。関心を寄せます。でも、その悲劇のあとの後日談には、誰も目を向けません」

「……確かに、そうだな。事件のほとぼりが冷めて世間から忘れかけられた頃に、どこかのメディアが特集を組むくらいだろう」

「ええ、その通り。誰も私たちには関心を向けなかったし、誰も助けてくれなかった。真面目に生きても損ばかり。きっとこの先も、同じような人生が続くでしょう……そんなの、生きている意味がありません」

「だから、罪のない者たちを巻き込んで死ぬのか?」

 理想探偵がこれまでで最も冷たい声で言った。

 今隣で、少女はどんな顔をしているのだろう。怖い。恐ろしくて目を向けられない。私はうつむいたまま、つぶやくように答える。

「私だって、罪もないのに苦しみ続けましたよ」

「そうだな。その点には同情する。喜んでキミに手を差し伸べよう。だが、かと言って罪を犯す免罪符にはならない」

「うる、さいですね……関係ないでしょ、黙っててください」

「断る。傷つけることは無関係でも可能だが、救うことは関係を持たなければ不可能だからな」

 理想探偵の白い指が私の頬に触れた。
 それからゆっくりと、自分の方を向くよう、指を肌に伝わせる。

「ヒトを傷つけるなとは言わない。誰かを傷つけずに生きるなど不可能だ。罪を犯すなとも言わない。ヒトは誰しも、大なり小なり罪を犯して生きるものだろう。しかし、自らの命を断つことだけは、認められない」

 理想探偵の指に促されるままに、私は理想探偵の方を向かされてしまった。

 再び目にした理想探偵の顔は、意外にも慈愛に満ちた笑顔だった。
 キレイな紫陽花色の瞳が、私の心まで見透かすみたいに、真っ直ぐに私を見つめて、離さない。

「過酷な運命を背負いながらも、これまで罪ひとつ犯すことなくキミの気高さを、私は心から敬愛しよう。キミが今犯そうとしている罪は、他の誰でもなく、キミ自身を傷つける行動だから、止めて欲しいんだ」

「何、それ……」

 ――耳を傾けちゃダメ。
 この少女の言葉は深く、私の心に突き刺さる。
 長い時間をかけて、ようやく固めた覚悟なのに、崩れてしまう。

 そう分かっているのに、少女から目を、離せない。

「それに、キミには生きるべき理由がもうひとつある。それは、キミの父親だ」

「父……? 私たち家族を苦しめた元凶が、何故理由になるんですか……?」

「先ほども言った通り、キミは大きな誤解をしている。彼は確かにキミたち家族を苦しめただろうが、それ以上にキミたちを愛し、守ってきたんだよ」

 理想探偵が再び懐から何かを取り出した。

 それは、金色のロケットペンダント。
 母が同じものを愛用していた記憶が頭をよぎり、直感的に父のものだと悟る。

 理想探偵の指がペンダントをイジると、二枚貝のようにパカッと開いて、内部の写真が露わとなった。

 そこに映っていたのは、赤ん坊を抱く若かりし頃の母と、どこか私の面影を感じさせる白髪の男性。

 目にするのは初めてだけど、ひと目で分かる。
 間違いなく父であった。

「このペンダントと共に届けられた手紙によると、刑務所に収監されている毒ヶ森英堂の元に、妙な組織からコンタクトがあったらしい。化学兵器の製造に力を貸して欲しい、とな」

 つい視線を足元の紙袋へと向ける。
 確かに、明けぬ夜事件と同じ犯行だとは思っていたけど、まさかこの化学兵器は父が……?

「早合点しちゃいけない。キミの父はその要請を断ったんだ。すると、次に彼の元に届けられたのは、娘であるキミの写真だった。暗に脅しをかけたワケだな……明けぬ夜事件の時と同様に」

「え――」

 一瞬頭の中が真っ白になった。
 理想探偵の口にした言葉の意味を、上手く頭の中で処理できない。

「あ、明けぬ夜事件の時と、同様にって? どういう、こと?」

 私が問いかけると、理想探偵は意外そうな様子で目を丸くした。

「知らなかったのか? キミの父が明けぬ夜事件に化学者として加担したのは、奥さんと娘のキミを守るためだよ。事件に巻き込まないために、キミたち家族の元を離れたんだ。もっとも、近年になってようやく公になり始めた話だがな」

「し、知らない、そんなの知らない……どうして、娘の私に誰も知らせてくれないんですか……? 何で私は、知ることができなかったんですか?」

 自分で言って、すぐに理由を悟ってしまう。
 これは、皮肉なまでに、自業自得の結末だ――。

「先ほど自分で口にした通りだ。キミは、父親が引き起こした悲劇には目を向けたが、その後日談……父親自身には目を向けなかった。だから、彼の言葉は届かなかったんだ」

「お父さん、は……? 私を守るよう依頼したってことは、父は要請を断ったんですよね? どうなったんですか?」

「……獄中で首を吊っているのが発見されたよ。自殺だと言われているが、私は口封じのための暗殺だと考えている。卑劣極まるやり口だ」

「そんな……そん、な……」

 誰も私自身を見てくれないと嘆き続けてきたけど、私も同じだった。
 私だって、父が犯した罪のことばかりを見て、父自身を見ようとしてこなかった。

 父を悪者にして、ひたすらに憎み続けて、真実を知ろうともせず、挙句の果てには父の仇の計画に協力までして――。

 何も知らないまま利用されて死ぬところだったんだ。

 強張っていた身体から力が抜けていく。
 呪われているみたいに、ずっと握りっぱなしだった傘を、ようやく手離すことができた。

「理想探偵さん……ありがとう、ございます。今からでも、自首は間に合うでしょうか?」

「何を言っているんだ。キミは“謎の組織から提供を受けた薬品を警察に届け出ようと、決死の覚悟で持ち運んでいる”だけだろう? 私がそう証言する、誰にも文句は言わせない」

 理想探偵がイタズラっぽく微笑みかけた。
 あどけなさの残るその顔は、確かに少女のもので。
 張り詰めていた私の心を、決定的なまでに、緩めていく。

「キミは自分の人生を後日談だと言ったが、バカを言うな。人生は舞台とは違う。悲劇などいくらでも起こるし、そうやすやすと幕を下ろさせてはくれないものだよ」

 そう言って、理想探偵はおもむろに席を立って、車両の中央に立つと、誰もいない車両の入り口を指差した。

「この事件の幕引きも少し早いようだな……そろそろ姿を見せたらどうだ? 盗み見坊や《ピーピング・トム》」

 理想探偵が何を言っているのか分からなかった。
 しかし、次の瞬間に起きた信じがたい出来事を受け、その意味を理解する。

 誰もいなかったはずの車両の入り口がひとりでに開いて、車両と車両の隙間の溝から、ウソみたいに細い男が這い出てきたんだ。

 男は車両の天井に頭が届きそうなほどの長身であるものの、身体が木の枝みたいに細く、骨ばっていて、筋肉はほとんど見えない。その細身にフィットしたゴム状の黒い衣装は、肘と膝で途切れ、骨ばった四肢を露出している。唯一丸みを帯びた頭部には、頭髪も髭も生えておらず、ギョロリとした丸い目が妖しく輝いて見えた。

「だ、誰、このヒト……!?」

「キミの監視役だろう。素人のキミ一人にまかせるはずもない。どこかにいるだろうと、観察を続けていて正解だった」

 細身の男がゆらゆらと私たちの方へ近づいてくる。
 それだけで、全身がプツプツと鳥肌立った。

 妙な悪寒で震えが止まらない。
 私の中の生存本能が、この場から逃げろと叫び続けている。

「ふふ、大した殺意だ。私を始末し、テロを遂行するつもりだな?」

 対して、私のそばに立つ理想探偵は余裕綽々。
 不気味な男が迫ってきているのに、何ら慌てる様子がない。

 男が表情を険しくし、木の枝のような腕を揺らす。
 次の瞬間、理想探偵の袖の端が、刃物に触れたみたいに切れた。

「骨を活かした“斬れる打撃”か。面白い……受け方を間違えれば死ぬな」

「り、理想探偵さん、逃げて……! もうすぐ駅に着くはずだから!」

 必死に叫んだ。
 しかし理想探偵は微笑をたたえたまま、拳を上げ、臨戦体勢をとる。

「安心しろ、松子くん。探偵に荒事は付き物。この程度の相手、すぐに片付く」

 そう言って、理想探偵が私に視線を向けた瞬間――細身の男の肘が彼女の顔面めがけて飛んできた。

 しかし理想探偵は、私の方を見たまま、首を傾けて紙一重で肘を回避する。
 間髪入れず、男の膝が、拳が、両肘が続けて襲いかかるけれど、理想探偵にはかすりもしない。

 まるで、吹き荒れる暴風雨の中、彼女の周囲だけが晴天かのようだ。

「私に噛みつく度胸は称賛しよう。だが、身の程を知れ」

 そして理想探偵は男に向かって、拳を軽く振るった。
 次の瞬間、アゴがオモチャみたいに簡単に外れ、男はその場に崩れ落ちてしまう。

 本当にすぐ決着がついてしまった。
 この理想探偵という少女は、自ら言っていた通り、頭脳だけでなく武道もこなすらしい。

 私が目の前の非現実的な光景を呆然と眺める中、懐から手錠を取り出し、細身の男を後ろ手に拘束していく理想探偵。
 男の拘束を終えると、彼女は再び私へと向き直り、口を開いた。

「キミに接触を図ってきたのは、平気で他者の命を弄ぶ危険極まりない組織だ。私は探偵として……この国を守る者として放ってはおけない。キミも探偵同盟に加わって、私に力を貸してくれないか?」

「力を貸す、って……? 私に、何ができるんですか?」

「キミが目をつけられたのは、父親ゆずりの化学者としての才覚を有しているからに他ならない。幼い頃から、父親の本で勉強してきたのだろう?」

 確かに、父の一件で学校をやめるまでの間、幼い頃からずっと勉強をしてきた。

 でも随分と昔の話だし、今では記憶も曖昧。
 きっと私を探偵同盟に迎え入れるための、方便に過ぎないのだろう。

「……力になれる自信はありませんよ?」

「なれるさ。キミはこれまで悲劇に屈せず、真っ直ぐに生き続けてきた強いヒトなのだから」

 そう言って、理想探偵は私に手を差し出してくれた。

 ――ズルいヒト。
 今までずっとうつむいて、明けない夜みたいに真っ暗な人生を生きてきたのに。
 これほど明るく、まばゆい道を示されては、顔を上げずにはいられないじゃないか。

 私は理想探偵の手を取り、立ち上がった。
 同時にタイミングよく、目的地である新宿へと到着する。
 紙袋を慎重に持ち上げ、理想探偵と共に、車両から駅のホームへと歩み出た。

 そして理想探偵に手を引かれ、太陽が照らす地上への階段を、昇っていくのであった――。

後日談
『探偵八ツ裂き事件』幕間


 理想探偵の前に遺体の山が積み上がっている。

 その多くが白衣姿。
 『探偵同盟』の裏方として、サポートに徹していた研究員たちばかりだ。

 中には、理想探偵にスカウトされ、彼女の力となるべく仲間に加わった者も少なくない。

「……キミもか、孤毒探偵」

 理想探偵が遺体の山へと手を伸ばす。
 積み上げられた肉塊の中に、彼女のよく知る顔があった。

 孤毒探偵。本名、毒ヶ森松子。
 かつてテロ事件の犯人になりかけたところを救い、仲間に誘った女性だ。

 『探偵同盟』に加わったのち、死に物狂いの努力で成長し、遂に先日、化学研究室の室長に昇進したばかりであった。

 そんな彼女が、ゴミのごとく積み重ねられ、冷たくなっている。
 これまで数多くの遺体を目にしてきた理想探偵も、流石にこの光景には、胸が痛まずにはいられない。

「すまない、松子くん。私が『探偵同盟』に誘ってしまったばかりに、キミは……」

 体温のない粘土色の肌に触れながら、悲痛に表情を歪ませ、理想探偵は手を離す。

 罪悪感はある。
 しかし、その感情に囚われている時間などない。

 後ろで待機していた仲間たちへと向き直る理想探偵。
 その表情からは既に、憂いも、悲哀も、後悔も、全て拭い去られていた。

「待たせてすまない、探偵同盟の諸君。まずは、無惨に積み上げられた我々の同胞たちを、丁寧に弔ってやろう」

 理想探偵の言葉に仲間たちがうなずく。
 思いもしないショッキングな光景に動揺こそしたものの、それで心が折れた人物は一人としていない。

 この島に召集された12人の探偵と“彼”が力を合わせれば、目的を達成できると、理想探偵は信じている――。

「私たちの手で、八ツ裂き公が引き起こした悲劇を、覆してやろうじゃないか」

――本編『探偵撲滅』に続く