僕には向かない職業
【第2幕】
~マイナス転換~
【12月29日19時(事件発覚から12時間)】喉にせり上がってきた胃の内容物の苦しさで目が覚めた。
ベッド脇のゴミ箱の元まで這って進み、胃の中身を全て吐き出す。
口の中が胃液で酸っぱい。
視界がグニャグニャで、手足がシビレている。
また死ねなかったのかと、相変わらずの自分の悪運の強さに呆れ果てた。
最近の市販の薬は、過剰摂取《オーバードーズ》を防ぐために、飲みすぎると吐き出してしまうよう作られているそうだ。
他の薬と合わせてみれば平気かと思ったけど、そう甘くはなかった。
「僕は……一体……」
記憶も、視界も、意識も、すべてが混濁している。
ゴミ箱の中の自分の吐瀉物をぼんやりと眺めながら、これまでの出来事を振り返り始めた。
「あ……」
刺すような頭痛。
それから、押し寄せる後悔の念。
ああ、そうだ。
僕は昨晩、今と同じように睡眠薬の影響で目覚めたあと、食堂にお茶を飲みに行った帰りの通路で、地震に足を取られて転倒。
朝まで気絶することになったんだ。
そして――
【12月29日7時(事件発覚時刻)】
目覚めると――ベッドの上に寝かされていた。
目の隈が深いスーツの男性、ワトソンさんがすぐ脇で手帳を開いていて、僕が起きたことに気がつくと、心配そうに話しかけてきた。
「目覚めたか、コーデリアくん。このたびは、本当に……気の毒だったね」
「気の毒……?」
言っている意味が分からず、オウム返しをしてしまう。
そんな僕の反応に首を傾げつつも、ワトソンさんは言葉を続けた。
「恐らく、キミは見てしまったのだろう? 自分の叔母である、クイーンさんの遺体を」
「い、遺体……? 何を、言っているんですか?」
からかわれているのかと思って、思わず笑ってしまった。
クイーンさんが殺されたなんてありえない。
六號館の構造上、どの客室も二重の扉を設けられているのに、どうすれば殺せるというのだろう。
「私には誤魔化さなくていい。キミはクイーンさんの部屋へと続く通路のド真ん中で倒れていたんだ。遺体を目撃していないなんて、不自然すぎるよ」
「そ、そんなことを言われても……そもそも僕はクイーンさんの部屋の前まで行っていませんよ? 何かの、間違いなんじゃ……」
昨夜あった出来事を包み隠さず話した。
僕は真夜中に目覚めてキッチンへお茶を飲みに行き、その帰りの通路で、地震で足がもつれて倒れただけ。
それ以外に、自分の行動を説明しようがない。
でも僕の話を聞いたワトソンさんは、怪訝な顔でアゴへと手を当てて、思案する。
「それは妙だね。今朝ニュースを確認してみたが、地震のニュースなんてなかったよ」
「えっ……? お、起きた人はいないんですか? 倒れてしまうくらいの地震だったのに」
「ああ。キミ以外は全員、食事会が終わって小一時間もしないうちに、朝まで眠ってしまっていたようだ。恐らく、食卓の料理に睡眠薬を盛られていたのだろう」
「す、睡眠薬が……!?」
驚いてしまったものの、納得できる部分も多々ある。
夜中に起きてしまったのも、既に睡眠薬を飲んでいる状態から更に摂取して、期せずして過剰摂取《オーバードーズ》になってしまったからか。
「だから皆さんは……アレほど強い揺れだったのに、眠っていられたんですね」
「犯行中起こさないために、強力な睡眠薬を使ったんだろうね。そうなると、キミ一人だけが夜中に起きられたことが、ますます不可解になってしまうけれど」
ワトソンさんに鋭い目を向けられて、ドキリとしてしまう。
自分で言ってて不可解なんだから、当然の反応だ。
僕が彼の立場でも疑ってしまうはず。
何より僕自身、クイーンさんの死には責任を感じている。
「あの……クイーンさんの遺体を見に行ってもいいですか?」
「平気なのかい? まだ目にしていないなら、無理に見なくてもいいんだよ?」
「い、いえ、僕には……見る義務があると思いますから」
訝しむような反応を示しつつも、ワトソンさんは僕をクイーンさんの部屋まで先導してくれた。
中央のホールを通って、ちょうど僕の部屋の向かい側の扉へと入って、通路を抜ける。
通路の先の扉をワトソンさんが押して開くと、そこは僕の部屋とまったく同じ、ベッドと簡単な机、間接照明のみが置かれた簡素な部屋。
ただひとつ大きく違うのは、ベッドの上でクイーンさんが、血に染まった掛け布団に包まれた状態で横たわっていることだ。
「クイーンさん……」
覚悟していたはずなのに、思わず声が漏れてしまった。
いつも時間をかけてカールしていた金髪が弱々しくペタンと寝ていることと、ナイフの突き立てられた胸に赤いシミが広がっていること以外には、普段と違った様子はない。
でも、如何なる時でも余裕の笑みを浮かべ、破天荒な行動に出る彼女独特の存在感は感じられなくて。まるで真冬の沼にゆっくりと沈んでいくみたいに、クイーンさんの死の実感がジワジワとこみ上げた。
「クイーンさんは、僕を人間扱いしてくれる、数少ないヒトでした」
「……そうか」
「クイーンさんのために、いつか恩返しがしたいと思っていたのに……僕は……僕は……」
ああ。
今更になって、自分の置かれた状況を理解する。
クイーンさんとは長い時間を一緒に過ごしたワケではない。
でも確かに、彼女は僕の大切な家族だった。
僕は今、この世界で最後の“家族”を、失ってしまったんだ。
「クイーン、さん……」
湧き上がってきたのは、怒りよりも、悲しみよりも、無力感。
これまで必死に切れないよう守ってきた『生きる』意志の糸が、プツンと切れた気がした。
「ワトソンさん……神さまに誓って、僕はクイーンさんを殺していません。でも、原因にはなっていると思います」
「それは、どういう意味だい?」
驚いたように訊ねたワトソンさんに、僕は死に満ち満ちた自分の生涯を、包み隠さずに語った。
かつて大地震に巻き込まれて、自分以外の家族が死んだこと。
以来、親族の元を転々とし、そのたびに何故か死者が出て、次第に「疫病神」と呼ばれるようになったこと。
今回のクイーンさんの死も、自分が引き寄せてしまったに違いないこと。
話していて、自分でも嫌になるような情報を語り尽くした。
「僕はきっと、そばにいるだけで人死を招く星の下に生まれてきたんです……もしよければ、ワトソンさんの務める探偵会社で、僕の身柄を押さえてはもらえませんか?」
「冗談を言っている、という雰囲気ではないね」
ワトソンさんが真剣な面持ちで言った。
ウソみたいな話だし、呆れられると思っていたから、真面目に受け止めてもらえて少し驚く。
そして、何より嬉しい。
「信じて、くれるんですね」
「探偵会社で働いていると、不思議な力を持っているヒトとの出会いも少なくなくてね。キミのような境遇のヒトがいたところで、疑問はないよ。それに……」
ワトソンさんはベッドの上の遺体へと視線を向け、言葉を続けた。
「クイーンさんが以前にキミのことを話していたんだ。探偵向きの素晴らしい境遇だから、ぜひその目で見て欲しいとね」
「僕が、探偵向き?」
初めて聞いた情報に当惑してしまう。
むしろ死人を生む自分は、探偵に疎まれる立場のはずで。
クイーンさんが何を想ってそんな発言をしたのか、想像もつかない。
「案外、自分の長所なんて分からないものだよね」
そんな僕の困惑を察してか、ワトソンさんが微苦笑した。
「でも私には、キミの境遇の武器が分かったよ」
「どういう、ことですか? いるだけで事件に巻き込まれて、周囲に迷惑を掛けてしまうのに、こんな境遇のどこが武器になるって言うんですか!?」
口に出して、すぐに後悔する。
つい胸の内のモヤモヤをぶつけてしまった。
ワトソンさんは悪くないのに。
これまでの家族の死も、クイーンさんの死も、僕の境遇のせいなのに。
他人に当たるなんて、どこまで最低な奴なんだ、僕は。
「コーデリアさん、キミが一緒にいれば事件を解決できるかもしれない。捜査に協力してくれないか?」
「あ……」
ワトソンさんに差し出された手。
その姿に、これまでの僕の『家族』たちが重なる。
今はもう、全員この世にはいない、人々の姿が――
「私を信じて欲しい。この事件の解決には、キミの協力が必要なんだ」
「きょ、協力なんて、そんなの……そんなの無理ですよ!!!」
ワトソンさんが引き止めるのも無視して、部屋を飛び出した。
暗がりの通路とホールを一気に駆け抜け、自分の部屋まで一直線。
部屋の鍵を締め、ベッドに倒れ込み、今更になって震え出した身体を小さく丸める。
未だにぼんやりとする頭に浮かぶのは、クイーンさんの死に顔と、ワトソンさんの言葉。
「僕が探偵に向いているって……僕の境遇が武器になるって……どういうことですか」
これまで死体を増やし続けてきたのに。
今更探偵を目指すなんて、あまりにもバカげている。
とんだ笑い話じゃないか。
恐らくワトソンさんであろう扉のノックも無視して、僕は涙も拭わずにベッドの上で泣き続けた。
そして涙も枯れた頃、ようやく覚悟が整って、睡眠薬と抗不安薬のビンを取り出した。
人生という名の、あまりにも無情な悲劇の舞台から下りるために――。
◆
【??月??日】カビくさい地下室まで僕をわざわざ訪ねてきた新しい“家族”は――情報屋を名乗る金髪の女性だった。
また、僕の特異な境遇に興味を持ったのかと呆れてしまったものの、僕は部屋の隅のベッドから立ち上がって、女性に如何にも優等生な笑顔を向ける。
「随分とひねくれているねぇ……」
でも女性は、僕の荒んだ心を見透かすみたいに、嘲笑した。
「いいかい? 多くのヒトを殺傷した爆薬だって、元々は人々の命を守るために作られたそうだ。キミのその境遇だって、必ず活かし方があるはずだよ」
そう語ってくれた女性――クイーンさんはもういない。
【??月??日】
冷たいアスファルトの床に、妹の血が広がる。
その血の海の中心に浮かぶ妹の頭を、震える手で抱き上げて、胸へと寄せる。
「ああああ……! あああああああああ!!」
また僕のせいで人が死んだ。
今度こそ守りたいと思ったのに、守れなかった。
もう二度と、他者を“家族”だなんて思わないことを、僕は心に誓った。
僕が家族と呼べるとヒトは――もういない。
【??月??日】
タンスから机、食器棚まで、部屋の収納スペースが余さず開かれた部屋の隅で、僕は猿ぐつわをされ、後ろ手に縛られた状態でカタカタと震えていた。
遠くから聞こえるパトカーの音。
誰かが異変に気付いて、通報してくれたのだろうか。
あの強盗犯は逮捕されるだろうか。
僕以外の家族は無事だろうか。
毎朝にぎやかな声が響いていた団らんの空間が、一晩で地獄絵図と化した。
僕の心が休まる場所は――もうどこにもない。
【??月??日】
何も見えない暗がりの中で、赤ん坊の鳴き声が聞こえる。
泣いても泣いても、赤ん坊の元には誰も訪れない。
助けを求めれば救ってもらえるのは、フィクションの中くらいだ。
現実は、いつだって無慈悲で、どこまでも悲劇的。
孤独な赤ん坊を――僕を救ってくれるヒトはどこにもいない。
赤ん坊は一人きり、ただ泣き続ける……。
「……さん、コーデリアさん!」
でも、そこで誰かに呼び掛けられた。
◆
【12月29日21時(事件発覚から14時間)】目を開けると、ぼやけた視界に、目の下のクマが濃い男性の顔が映り込んだ。
「コーデリアさん! よかった……意識が戻ったんだね」
安堵の表情を浮かべるそのスーツの男性は、確かワトソンと呼ばれているヒトだ。
頭がぼんやりとして、よく働かない。
一体何があったんだっけ。
「まだ意識が混濁しているみたいだね。まぁそれも当然だよ……キミが飲んだ薬の量は、百じゃきかないようだからね」
「僕が飲んだ、薬……」
段々と記憶が思い出される。
ああ、そうか。
僕は、もう全てが嫌になって、自分の部屋で薬を過剰摂取《オーバードーズ》したあと、ベッドに倒れ込んで。
一度は目覚めたけど動けず、そのままもう一度、意識を失ったんだ。
「また、死ねなかったんだ」
ようやっと、目的を達成できなかった事実を理解した。
とても長い夢を見ていた気がする。
これまで僕が原因で亡くなっていった人たちの夢だ。
これでも死なせてもらえず、僕のトラウマまで掘り起こされるなんて、何が何でも、僕に生きろって言うのか。
「どうして……どうして、みんな僕を楽にしてくれないの……?」
自分が周囲にとってどれほど有害かは、自覚している。
だから、このまま消えてしまいんたいんだ。
死ぬのはもちろん怖い。
でも、自分は生き残るのに、大切なヒトたちばかり傷ついていく方が、ずっとずっと怖いから。
「コーデリアさん、キミは、楽になりたいのかい?」
ベッドの脇に立って僕を見下ろすワトソンさんが、冷ややかな声で問いかけてきた。
声には出さず、ただ首肯だけを返すと、ワトソンさんは怒ったように眉をつり上げ、語り出す。
「キミが本当に罪の意識を感じているなら、楽になろうとなんてしちゃいけない。キミ自身の力で、その罪と向き合っていくべきだ」
「向き合う、って……」
どうしろって言うんだろう。
生きているだけで周囲に不吉を撒き散らす僕に、何ができる?
「生きているだけで、周囲の人々を傷つけてしまう力を、どう活かせって言うんですか……? 僕の気持ちも、知らないくせに……勝手なことばかり、言わないでくださいよ」
まだシビレの残る唇を必死に動かして、精いっぱい反論した。
罪を糾弾されるのはかまわない。
自覚していることだし、僕には反論する権利などない。
でも僕の境遇をろくに知らないくせして、軽々しく「力を使え」なんて言われることだけには、納得がいかなかったんだ。
「確かに……キミだけが境遇を明かすのはフェアじゃないか。私も正直に素性を明かすよ」
そう言うとワトソンさんは、懐から手のひら大の電子タブレットを取り出した。
それから軽く操作し、画面を僕に向ける。
画面に表示されていたのは、目玉を模した銀色のシンボル。
そのシンボルには見覚えがあった。
「それは……クイーンさんがいつか話していた、『探偵同盟』のシンボル……?」
「探偵会社の事務というのは偽りでね、私は『探偵同盟』に所属する探偵……組織内では『社畜探偵』と呼ばれている」
想わぬ告白。
ただ、腑には落ちた。
殺人事件が起きてからのワトソンさんは、明らかに現場慣れした動きを見せている。
本職の探偵なら、それも当然のことだ。
「コーデリアさん、私が何故『社畜探偵』と呼ばれているか分かるかい?」
「い、いえ……」
「キミと同じだよ。私にも、語りたくない過去がある……組織の言いなりとなってしまい、多くのヒトを傷つけたんだ」
苦々しげに語るワトソン――いや社畜探偵さん。
その表情は、それまで感じた柔和な印象から一転して重々しく、相当に悲惨な過去を匂わせた。
「でもある時、過去を恥じる私に探偵同盟のリーダーが、『指示に従順で、正確な仕事ができる探偵は貴重だ』……と言った。そして私を『社畜探偵』と名付けてくれたんだ」
「……物は、いいようですね」
「当時の私もまったく同じ言葉を返したよ」
つい口に出てしまった皮肉に、社畜探偵さんは苦笑を返した。
「そしてリーダーは、納得いかない様子の私にこう言葉を続けた。『物は言いよう、物事は捉え方次第。マイナスの事象だって、逆側から捉えればプラスになる。それが真理なんだよ』とね」
「……マイナスの事象だって、プラスに」
考えたこともなかった。
自分の境遇をプラスに捉えるなんて、無理だと思うから。
実際、どう捉えたって、僕の境遇はマイナスにしかならない。
社畜探偵さんの言葉を素直に受け止めるには、あまりにも周囲の人を、死なせ過ぎている。
「目をそらさないでくれ、コーデリアさん」
社畜探偵さんが、ベッドに横たわったままの僕へと顔を寄せ、目と目を合わせて語る。
「私は、自分にとってトラウマでしかない過去を武器に変え、真面目が取り柄の社畜探偵として生まれ変わった。キミだって必ず、変わることができるはずだ」
「僕の境遇じゃ……無理、ですよ……」
「無理じゃない。先ほども言った通り、キミのその境遇は事件を解く鍵になりうるんだ。キミ自身にできないなら、私が捉え方を変える。だから、全てを諦める前に、力を貸してくれ……!」
社畜探偵さんの声は震えていた。
肌に汗まで浮かばせて、必死に僕へ語りかけている。
どうして他人のために、それほど必死になれるのだろう。
どうして、どうして、どうして――
「どうして、こんな僕に……みんな手を差し伸べてくれるんですか……」
「キミが境遇に負けず、これまで生きてきたからこそだ。これまで守られてきたキミの命には意義があるはずだと、私は信じたいんだよ」
半ば八つ当たり気味に口から飛び出した言葉に、社畜探偵さんが即答してくれた。
「これまで、守られてきた命……」
社畜さんの言葉を反芻すると、視界が夜明けのように白んで、意識が遠のく感覚を覚えた。
真っ白な視界の中で、どこか、懐かしい声を耳にする。
「――レオ、は……? レオは、無事か……?」
「ええ……私の腕の中にいる……咄嗟に飛びついたから、怪我も、ないみたい」
「そう、か……なら、よかっ、た……」
声が弱々しくなって途切れていく。
その声はきっと、僕が初めて、家族を失った時の記憶。
僕を産んでくれた両親の、今際の会話だ。
「父さん……母さん……」
僕にとって都合のいい妄想かもしれない。
いくら取り繕ったって、僕の周囲で多くのヒトが死んだことは、間違いない。
でも、その僅かな言葉の掛け合いは、僕の認識を変えてくれた。
「家族を傷つけていただけじゃない……僕はこの命を、家族に守られてきたんだ」
白んでいた視界が再び輪郭を得て、元の現実――洋室のベッド上に帰還した。
バクバクと高鳴る鼓動。
その命の脈動に、これまでにない重みを感じる。
僕の命は僕だけのものじゃない。
だから、ここで死ぬワケにはいかない。
シビレて動かない手足を動かそうと、懸命に足掻く。
「手を貸そうか?」
「平気、です……!」
社畜探偵さんの厚意を断って、力づくで身体をベッドから起こし上げた。
それから腕の力でベッドの端まで移動し、未だに震える足を床へと下ろし終えると、慎重に立ち上がる。
薬物の影響で視界はぼやけているけれど、頭の中はクリア。
自分が今成すべきことを断言できる。
「社畜探偵さん、僕のこの境遇の活かし方というのを、教えてください……クイーンさんの仇をとれるなら、どんなことだってします」
ずっとマイナスに捉えてきた自分の境遇と、向き合う時が訪れたんだ。
◆
【12月29日22時(事件発覚から15時間)】暗がりの廊下――事件現場となったクイーンさんの部屋と中央のホールとを繋ぐ通路に、僕と社畜探偵さんは訪れていた。
光源がないと何も見えないので、懐中電灯で照らしながら調査を行う。
他の皆さん曰く、クイーンさんの遺体が発見された際に、僕はこの廊下で倒れていたそうだけど、まずそれがおかしい。
「僕が倒れたのは、キッチンへと続く廊下です。恐らく、僕が気絶している間に、犯人が移動させたのだと思います」
「コーデリアさんの記憶が正しいなら、そうだろうね。問題は、どのようにして密室だったあの空間に入ったかだ」
「各部屋の扉は、部屋ごとに独自の鍵が設けられていますからね」
言いつつ、おかしな点に気付いた。
「そう言えば、さっき目覚めた時、社畜探偵さんは僕の部屋にいましたけど、どうやって入ったんですか……?」
夜中にキッチンへ向かった時は鍵をしていなかった気がするけれど、薬物を飲んで自殺を図った時には、確かに部屋の鍵を閉めた覚えがある。
よくよく考えればおかしな話だ。
「おっと、説明が漏れていたね。ホールから廊下に入るための扉の鍵は部屋ごとに別々だけど、部屋自体の鍵は共通なんだ。コーデリアさんの部屋に入ろうとした時に鍵穴を調べてみて、初めて気付いたよ」
「共通、って……つまり、どの鍵でも開く、ってことですか?」
「ああ。おかげで、扉を壊さずに済んだんだ」
社畜探偵さんは実際に、クイーンさんの部屋の扉の鍵を解錠と施錠をしてみせた。
なかなかに酷いセキュリティーだ。
盲点過ぎて、これまで暮らしてきた中でまったく気付かなかった。
ただ、ホールから廊下への侵入を許した時点で鍵は意味を成さないも同然だし、部屋の扉の鍵が他と共通でも、支障はないのかもしれない。
「つまり、廊下にさえ入ってしまえば、誰でも部屋の中には入れる状態。クイーンさん殺害のトリックの肝は、どのようにホールから廊下に続く扉を攻略し、その内側へと入ったか、なんですね」
「その通りだよ。流石はクイーンさんの養子。探偵としての筋がいいね」
「い、いや、その……クイーンさんがよく僕に、謎掛けをしてくれていましたから」
気恥ずかしくて頬を掻く。
すると、まだ真新しい切り傷があるようで、チクリと痛んだ。
指を見てみれば、そこには薄っすらと血が付着している。
「そっか。昨晩、転んで気を失った時に、頬を切っちゃってたんだ」
「結構深そうな傷で気になっていたけど、平気かい? 絆創膏ならあるよ」
「大丈夫です。怪我は慣れっこですし、薬や絆創膏を常備していますから」
腰につけたポーチから大きめの絆創膏を取り出して、頬に貼った。
そこで、床に乾いた血痕が残っていることに気がつく。
僕が倒れた時に、血が広がってしまったのか。
「ん……? 血痕が、壁とは逆方向に伸びてる……?」
血痕は僕の顔と接していたらしい箇所に丸く広がっていて、そこから流線を描くように壁とは逆側に伸びている。
別に木目に沿って伸びているワケでもないようだし、妙な違和感を覚えた。
直感を信じて、床と壁を改めて調べ直すと、床と壁は接していなくて、僅かに隙間が生じていることに気がつく。
「この通路、何かおかしい」
そもそも六號館自体、おかしな構造。
今回の客人はみんなクイーンさんと旧知の仲のようだし、特殊な構造を知っていて、それを活かして密室トリックに利用したとは考えられないだろうか。
社畜探偵さんに血痕と、床と壁の隙間について報告すると、真剣な面持ちで考え込んだ。
「一度、時系列を整理しようか。私たちは20時頃に食事会を終え、それぞれの自室へと戻った。私を含め、全員が程なくして眠気を覚え、朝まで睡眠を摂っている。恐らく、食卓に出たもののいずれかに、睡眠薬が混入していたんだろう」
「僕もその辺りで一度眠りました。でも気分が悪くなって、午前3時頃に目を覚ましたんです。恐らく、自分でも睡眠薬を飲んだせいで、過剰摂取《オーバードーズ》になったのと、そもそも常飲している関係上、身体に耐性ができているからだと思います」
「なるほど。個人差はあれど、睡眠薬も耐性ができる。私たちの中で、キミと犯人だけが行動できたのはそれが理由か」
社畜探偵さんに言われて気付いた。
そうか。
僕だけではなくて、犯人も睡眠薬に耐性があるヒトなら、僕と同じで行動ができたかもしれない。
これで、睡眠薬を使ったトリックの一端は紐解くことができた。
「それから僕は、しばらくベッド上で薬の副作用に苦しんだあと、喉を潤すためにキッチンルームへ向かいました」
「キッチンルームでは、特に怪しいものも見なかったんだよね?」
「はい。少なくとも、僕の見た限りでは何も。それから、麦茶を飲んで自室に戻ろうとしたら、途中で地震に足をとられて気絶してしまった……という形です」
「検死によれば、犯行時刻は午前3~5時頃だそうだから、その時に何かがあったことは間違いないね。キミが遭遇した地震の正体を読み解けば、謎は解けるはずだ」
あの地震の正体。
どうすれば、屋敷が揺れるほどの衝撃を起こせるんだろうか。
それに、衝撃を起こすことで密室をすり抜けるトリックなんて、想像もつかない。
「あれ……? そもそも犯人はどうして、キッチンへと続く通路にいた僕に気付いたんだろう?」
犯人は、自分とクイーンさんの部屋の前の通路しか、通る必要がない。
僕を犯人に仕立て上げるメリットは分かるけれど、そもそも僕の存在に気付くこと自体、おかしくないだろうか。
犯人は睡眠薬で全員を眠らせたと思い込んでいたはず。
僕がキッチンへ行ったのは、間違いなく想定外。
つまり――
「犯人はキッチンへ行く必要があって、その途中でたまたま僕を見つけたってこと……?」
胸が高鳴る。
自分が今、とても重要な事実に気付けたことを確信できた。
僕は本当に、この事件を解明できるかもしれない。
探偵として、クイーンさんの仇をとることが、できるかもしれない。
「社畜探偵さん、今回のトリックにはキッチンに関わりがあるみたいです……! そうじゃなければ、キッチンの通路にいた僕の存在に気付けなかったはずですから!」
「いい顔になってきたね、コーデリアさん。この調子で、すべてのトリックを暴いていこう」
それから社畜探偵さんと僕は、二人で暗がりの通路を徹底的に調べ始めた。
そこでまた妙な事実を発見する。
「ん? この通路、こんなところに壁があるのか。それも、曲線を描いているね」
「え? 曲線?」
手すりのない側を調べていた社畜探偵さんの発言に驚いて、僕も件の壁へと近づく。
すると、確かに社畜探偵さんの言う通り、手すりのない側の壁は緩やかな曲線を描いていた。
「おかしいですね……昔クイーンさんに見せてもらった図面だと、この通路は各部屋の形に合わせて、鋭角を描いているはずです」
「この通路は暗いし、手すりのない側へわざわざ行く必要がないから、気付けなかったんだろうね、他の通路も同じか、確かめてみよう」
それから社畜探偵さんと二人で、各通路を見て回ったけれど、結果は同じ。
つまり、この通路は中心とホールに合わせて、キレイな円形だということが分かる。
その形と、手すりの存在を照らし合わせると、ウソみたいな可能性が頭に浮かんだ。
もしかしたら、六號館に隠された仕掛けというのは――
「社畜探偵さん、もう一度手すりを調べてみませんか?」
「同じ可能性に思い至ったみたいだね。実際に、確かめてみようか」
他のヒトたちが通路にいないことを確認したあと、キッチンへと続く通路まで戻ってきた。
そして二人で一緒に壁を向いて並び、手すりを掴んで、壁に向かって力いっぱい押し込む。
何も起こらない。
でも、まだ力を抜いたりはしない。
手汗も気にせず、全力で手すりを握り込んで、床を思い切り踏み込んでいく。
「負け、ない……」
――これまで僕は、色んなことを諦めて生きてきた。
自分の悲劇的な境遇を恨んで、失った家族のことを悲しんで、気付けば誰も傷つけないことばかりを気にしてきた。
それでは、これからも失うばかりで、何も変わらない。
「負けない……!」
――だから、僕は変わる。
変わらないとダメなんだ。
たとえこの人生が悲劇でも、最後にはハッピーエンドが待ってるって、信じ続けたい。
「負けない――!」
額から垂れた汗も気にせず、もう一歩前に踏み込んだ。
すると――
「あ」
汗で足が滑って、事件の前に気を失ったみたいに、額から手すりに突っ込んだ。
ところが、手すりは僕の額の落下点から前に“ズレて”、何にもぶつからずに空を切った。
何とか地に足を着けて、前を見ると、僕の推理した通りの光景が目の前に広がっていた。
「これが六號館の秘密の仕掛け……犯人はこの仕掛けを、トリックに用いたんだ」
「はは、やはりキミは探偵に向いているよ」
驚く僕を尻目に、何故か隣の社畜探偵は声を出して笑う。
「足を滑らせたことがトリックの看破に繋がるなんて、まるでミステリーに出てくる名探偵そのものじゃないか」
「ぐ、偶然ですよ……それに、いいことばかりじゃないんです」
そうだ。
トリックを解いたからと言って油断はできない。
何故なら、僕のこれまでの境遇を考えれば、こうしてトリックを看破できたことは、同時に別の意味も表すのだから。
「僕が引き寄せてしまうのは、自分にとって危険な物事ばかりです……つまり、このトリックの証拠を掴んだということは……」
この事件の犯人は、たとえ正体を暴かれても、ただでは捕まらない。
恐ろしい脅威の気配を、僕は感じ取っていた。
――第3幕へ続く